この男の顔(図1)に見覚えがあるだろう。東洲斎写楽の役者絵の中で最も知られている一枚である。吊り上がった眉と目に、大きく真一文字に結んだ口。背中を丸め、顎をぐっと前に突き出し、懐から出した両手の指を極限まで大きく開いて見得を切っている。浮世絵らしい和風なキャラクターとして、グッズや書籍のデザインに採用されることも多い。
浮世絵に詳しい人であれば「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」という題名も記憶しているかもしれない。三代目大谷鬼次という歌舞伎役者が、寛政6年、河原崎座で上演された「恋女房染分手綱」に登場する江戸兵衛というキャラクターを演じている。
だが、江戸兵衛がどのような人物かまでは知らない人も多いのではないだろうか。実は悪人、しかも小悪党である。江戸兵衛は盗賊の頭で、この浮世絵は、鷲塚八平次の命令を受けて奴一平から300両もの大金を奪い取ろうとしている場面である。善人側を脅かす、汚い悪事を働いている瞬間を切り取っているのだ。
そう思うとこの男の印象も変わってくる。鋭い目つきや前のめりの姿勢はすべて相手を威嚇するもの。髪に注目してみると、頭頂部の月代を綺麗に剃らず、ぼさぼさに伸ばしているが、これはこの男がうらぶれた生活を送っていることを示している。浮世絵で最も有名な「顔」は、実は小悪党の悪意に満ちた表情だったのだ。
浮世絵の役者絵では、国家の転覆を企てるスケールの大きな悪人から、心が弱くて悪事に手を染めてしまった哀しき悪人まで、さまざまな悪人が登場する。月岡芳年の「英名二十八衆句」は歌舞伎や講談の残酷な殺害場面を集めたシリーズで、悪の香りに満ちている。
図2 月岡芳年「英名二十八衆句 福岡貢」慶応3年(1867) 筆者蔵
その内の一図、「福岡貢」(図2)が描くのは、遊郭で何人もの人を斬り殺した男性。歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」の主人公である。貢が握るのは妖刀の青江下坂で、すでに何人も斬り殺したのだろう、刀身には血がたっぷりと滴っている。貢の着物には返り血が飛び散り、右のふくらはぎには血まみれの手形がべったりと付いているが、そんなことも構わずに一心不乱に刀を振り回す。左下に無惨に転がっているのは、犠牲となった女性の生首だ。まさしく「血みどろ絵」や「無惨絵」と通称されるシリーズの一枚である。
ただ、貢は根っからの悪人ではなかった。遊郭で馴染みの遊女に偽りの愛想尽かしをされたり、敵方に通じる仲居から執拗な侮辱を受けたりと、いくつもの不幸が重なって貢は逆上した。その時に手にしていたのが妖刀であり、それに取り憑かれてしまったため、大勢の人たちを殺めてしまう結果になったのだ。
悪人にはさまざまな過去と事情がある。フィクションの物語として描かれるからこそ、たとえ残忍な姿だとしても、そこにヴィラン(悪役)の魅力を感じ取れるのだろう。