ファンを熱狂的に虜にするアイドルは、江戸時代にも存在した。3人の人気アイドルたちが揃い踏みする、鈴木春信の「お仙と菊之丞とお藤」(図1)をご覧いただきたい。
センターに立つ振袖姿の人物は女性にしか見えないだろうが、実は男性。二代目瀬川菊之丞という女形の歌舞伎役者である。両隣の女性と区別がつかないそっくりな顔立ちだが、胸にある「丸に結綿」の紋が菊之丞である証となっている。
菊之丞のヘアスタイルや衣装の色は、菊之丞の俳名である「路考」にちなんで、路考髷や路考茶と呼ばれて女性たちの間で大流行していた。菊之丞は言わば王道のアイドルのような存在である。
それに対し、菊之丞の両サイドに並ぶのは、ごく普通の町娘である。左が浅草の楊枝屋・本柳屋で働くお藤。房楊枝(江戸時代の歯ブラシ)や歯磨き粉を販売している。右は谷中の笠森稲荷の鳥居脇にあった水茶屋・鍵屋で働くお仙。2人とも年齢は10代後半という若さ。今風に言えば、ショップやカフェで働く可愛らしい高校生スタッフだ。
明和年間(1764~72)、歌舞伎役者のような「プロ」ではない、身近な「素人」である町娘たちが「会いにいけるアイドル」として巷の評判となった。中でもお仙とお藤は鈴木春信の浮世絵のモデルになり、その人気は沸騰。評判記や瓦版でも紹介され、グッズの手拭まで作られた。
春信の絵の中で、歌舞伎役者と張り合うように町娘が並んでいることは、新しい形のアイドルが誕生したことを象徴するものであった。
このような町娘のアイドル化現象は、それから20年以上経った寛政年間(1789~1801)にも起きている。この時に一、二の人気を誇ったのが、浅草の水茶屋・難波屋で働くおきたである。やはり10代後半の可憐な看板娘だ。
この時は喜多川歌麿が彼女の美貌を浮世絵に描き、その人気をさらに高めた。しかし春信の時代とは異なる出来事が発生する。寛政の改革による出版統制である。
茶屋で働く若い町娘が浮世絵というメディアに取り上げられて世間の耳目を集めることは、風紀を乱すいかがわしい事とされ、彼女たちの名前を浮世絵の中に記すことが禁じられたのである。
そのような幕府の取り締まりに対抗しようとしたのだろう。歌麿は一つのアイデアをひねり出す。お茶を運ぶ女性を描いた図2の題名部分をご覧いただきたい。
「高名美人六家撰」とあるが、女性の名前はなく、代わりに四角い枠の中にイラストが描かれている。実は判じ絵、すなわち絵解きのクイズになっており、「菜二把」「矢」「沖」「田」で「なにわやおきた」、すなわちこの女性が難波屋おきたであることを暗示しているのである。
だがそれからすぐに判じ絵も禁止され、町娘ブームも終焉してしまった。アイドル的な存在であった町娘たちは、幕府にとっては取り締まるべき危険な存在だったのである。