モチーフで読む浮世絵

ランドマークと摩訶不思議な塔

高層建築のない江戸の空はきっと高かったはず。青い空には、アクセントのようにいくつかの塔が建っていたといいます。 今回はそんな「江戸のタワー」を見てみましょう。
図1 歌川広重「名所江戸百景 浅草金龍山」安政3年(1856) メトロポリタン美術館蔵

 近年、首都圏では20階建て以上のタワーマンションが各所で建設されるようになり、高くそびえる建造物を目にすることが多くなった。江戸時代の頃は、町人たちは3階建ての建物を造ることを禁じられていたので、現代人ならばそれほど高いとは感じない建物でも、江戸っ子たちは巨大なものとして驚きながら見上げていたことだろう。

 江戸の町で高い建造物といえば、寺院の五重塔である。上野の寛永寺や芝の増上寺、浅草の浅草寺などの五重塔が有名であった。寛永寺の五重塔は高さが36メートル。12階建てのマンションくらいの高さなので、当時いかに目立っていたかがうかがわれる。

 江戸時代の五重塔の中で、浮世絵に最も頻繁に描かれているのが浅草寺の五重塔である。遠くから浅草を眺めた景色では、五重塔が本堂の屋根と共にひと際抜きん出た高さで描かれており、浅草という場所を象徴するランドマークになっていた。

 歌川広重の「名所江戸百景 浅草金龍山」(図1)は、浅草寺の雷門の真下から雪に覆われた仁王門と五重塔を眺めている。雷門の大提灯を手前に大きく描くことで、実際にこの場所に立っているような臨場感と遠くの五重塔までの距離感を演出している。

 この絵の刊行は安政3年(1856)7月だが、前年の10月、江戸の町は安政の大地震という大災害に見舞われた。浅草寺の五重塔も被害を受け、屋根の上の九輪がぐにゃりと曲がってしまった。しかし広重の絵の九輪は真っ直ぐ。

 実は2カ月前に九輪がようやく修復され、広重の絵は浅草寺の復興の証として刊行されたものと考えられている。江戸っ子たちは浅草の象徴が元に戻ったことを、この絵と共に喜んだに違いない。
 

図2 歌川国芳「東都三ツ股の図」天保2~3年(1831~32)頃 メトロポリタン美術館蔵

   

 さて、塔を描いた浮世絵として近年話題を集めたのが、歌川国芳の「東都三ツ股の図」(図2)である。三ツ股は、隅田川に小名木川と箱崎川が合流するところ。手前では船の保ちを良くするために船底を炙る船熮(ふばたで)という作業が行なわれている。

 立ち昇る煙と空にたなびく雲に西洋絵画風の表現を取り入れている点が重要な見どころだが、最近注目されているのはそこではない。画面の左端、対岸にそびえている謎の巨大な塔である。

 左側は火の見櫓なのだが、右側の塔は鉄塔のような奇妙な形をしており、手前の建物と比べてもはるかに高い。これがまるで東京スカイツリーのようだと話題になり、国芳が現在にタイムスリップしてスカイツリーを見たのではという珍説まで生まれてしまった。

 実は、この塔は井戸を掘るための櫓であり、同じような櫓は他の浮世絵でも描かれている。だが、実際の井戸掘り櫓の高さはせいぜい10~15m。国芳はかなり誇張して描いたことになるが、火の見櫓よりも高い井戸掘り櫓を見上げた時の驚きがきっかけなのだろう。その結果、現代の私たちに不思議なミステリーを残したのであった。