小説は手渡されるものになった。
映画のために。
もはや純然な読書は、生活から消えた。
漫画も、詩集も、ノンフィクション作家の本も、映画のための本になった。
本棚は盛り場、書店は狩り場。
世界は映画を作るための資料庫。
交わされるすべての言葉は、映画のためにだけ編み込まれ、
その先の結実を夢見た。
そして何人もの人が、同じ小説を私の目の前に置いた。
それが『コンビニ人間』(村田沙耶香、文藝春秋)だった。
まず監督を口説く作法として、
「これはあなたにしか撮れない。他の監督が撮ったなら陳腐な苦悩に堕してしまう。あなたにしか撮れない、だからあなたが撮るべきだ」
そういう語り口が定石としてあって、
でも私は愚かにも、それを心の深い部分で信じてしまうことになった。
こらえきれずに抱きしめたくなった。
本を?
主人公を?
作家を?
美しい人だったな。
あの人の美しさは、根の深い寂しさから来ている。
彼女自身を撮るなら、きっとそう思って彼女を撮った。
輪郭に絶望があって。
断絶する場所にだけ、文字が光となって射し込みうる。
私小説とは違う、個別の生きてきた、孤独な魂。
そういうものが焼き付いているものだけが芸術だと思った。
とても申し訳なさそうに、「実写化権取れなかったです」と、
また何人もの方がご連絡を下さった。
でもあの時間が幸福だった。
もしも私が『コンビニ人間』を映画にできたなら、
そんな問いを忘れて、『コンビニ人間』を読みふけった。
瞳に孤独を張り付かせて。
泣きたかったけど、泣かなかった、
それが唯一の矜持にも思えたから。
抱きしめたい映画の夢を見た時間。
†
――「あなたの映画は、角川映画を思わせる」
たとえ青春映画を撮った監督へ対するの賛辞としての、
ある種の定例文と化していても。
『角川映画 1976-1986 日本を変えた10年』(中川右介、KADOKAWA)
この熱く暖かい本を通して、
あの表面的かもしれない言葉の連なりすら、
私は真芯に受け止めることになってしまう。
角川文庫と角川映画の、どちらがどちらへの寵愛か。
小説が映画の夢を見るのか、
映画が小説の夢を見るのか。
そして革命。
スター映画であることはもちろんとして、
映画自体が、一番星のような輝きを放つこと。
魂だけが、夢を見ることができる。
あまりに生硬な夢だとしても。
個人的な継承は、文化においてだけ、許された余白だ。
これから何度日が巡っても、角川映画を思わせる映画を、
私自身が思いを馳せながら、作ることが許されるならば。
青くてあわれな春だった、
でもそれでも、どうしても熟す日が来てしまうのなら、
今私は東京を泳ぐことしかできない。
映画を一番星にする余白がこの夜空に広がっている。
†
気付くと恋人と、これからどう生きるべきかを話している。
それは、どういう映画を撮るべきかという題でしかなく、
ただずっと未来の映画の話をしていることになる。
だから恋をしているのか、映画を作っているのか、わからなくなる。
「あなたはどんな映画を撮りたいの?」
川上未映子さんの『きみは赤ちゃん』(文藝春秋)というエッセイがある。
映画ではない。
けれども永遠に続く命を身籠っている。
きっと孤独は、膨らむことでしかない。
誰と連れ添っても、魂を癒してくれるのは、
書くことでしか、撮ることでしか、ないのだろう。
川上さんの書く言葉、描く世界に触れると、
まだ生きて、そして映画を撮るのだと思う。
そんなこと、言葉で書いてはいないのに。
でも、そう全身で思う。
心の底からそう信じることができる。
きっと、日本中の女の子がそんな気持ちで彼女の言葉を愛している。
個人の魂と、世界の境界に立つ教会で、
ひとつの命が生み落とされた。
私たちは作るしかない。
めくるページの向こうから、手を差し伸べられる。
そこでだけ、出会えるあなたを愛す。
恋をしているのか、映画を作っているのか、分からなくなりながら。