丸屋九兵衛

第16回:作品に罪はないのか、ピエール瀧? レイシストや同性愛嫌悪者の名作を再訪する

オタク的カテゴリーから学術的分野までカバーする才人にして怪人・丸屋九兵衛が、日々流れる世界中のニュースから注目トピックを取り上げ、独自の切り口で解説。人種問題から宗教、音楽、歴史学までジャンルの境界をなぎ倒し、多様化する世界を読むための補助線を引くのだ。

 令和という新時代の幕開けに、堕ちた偶像がまた一つ。

   その人の名は、天野喜孝という。旧・天野嘉孝だ。
..............................................................
 もちろん、元号が変わったところで「新時代」を謳歌するわたしではない。しかし、天野喜孝に失望したのは事実である。

 そもそも天野はタツノコプロ出身。それも、吉田竜夫の居候という立場で、10代半ばからタツノコプロに入った叩き上げだ。
 君よ、思い出せ。『新造人間キャシャーン』『宇宙の騎士テッカマン』『破裏拳ポリマー』のキャラクターたちの、暑苦しくも精緻に描き込まれたツラ構えを!

 タツノコ独立後の天野の仕事としては、マイクル・ムアコックによるヒロイック・ファンタジー小説『エルリック』シリーズのハヤカワ文庫版表紙という偉業があった。タツノコプロ時代の画風とはかなり違う繊細で幻想的なものだが、それはそれで素晴らしかった。
 特に第4巻『暁の女王マイシェラ』表紙でのエルリック裸身! なぜ裸なのか理由は不明だが、我が国のSF/ファンタジー愛好家の脳裏には「エルリックといえば天野!」と刻み込まれたものだ。

 そのエルリック仕事が80年代半ばのこと。だが90年代のある時点、『ファイナルファンタジー』シリーズの途中からか、ニョロニョロっと頼りなく不安定な線を多用した「幽玄の美」(を目指している)みたいな画風が目立つようになる。
「あれだけバタくさいタツノコものを描いていた人がなあ」と、意外の感に打たれたものだ。「巨匠となった自分に酔っている」感もあった。意地の悪い言い方をすれば。

 しかし、ここまでは画風の好みの問題である。今回は、その「幽玄の美」画風でもって、内閣総理大臣・安倍晋三を「サムライ」として超絶美化してしまったのだから、次元が違う。前回本欄でわたしが槍玉に挙げた「サムライ自慰ポルノ」を地で行く展開ではないか。
 あんなに大好きだった天野喜孝が――真っ当とは思えない政府の発注で――こんなに馬鹿馬鹿しい仕事を世に出してしまうとは!

 正直言って呆れかえったよ。
 だが。それが原因で、わたしが天野喜孝版エルリックを嫌いになるか?
 否、である。

 今の天野喜孝がどうあれ、過去の作品に罪はない。
..............................................................
 他人が君の期待どおりに君の文章を受け取ることは稀だ。

 例えば。
 過日、わたしはツイッターにこう書いた。
 "大相撲の土俵に女人が上がるべきでないのと同様、女性天皇も女系天皇ももってのほかだと思います!"
House Nymeros Martell


 こんな説明、するだけ野暮なのだが、もちろん反語である。
 ヒントになるのは最後の署名(?)、House Nymeros Martellだ。ナイメロス・マーテル家とは、『ゲーム・オブ・スローンズ』の主な舞台「七王国」を構成する一国「ドーン」を治める貴族。ドーンは他の地方と違って婚外子に社会的なスティグマはなく、同性愛も両性愛も普通のこととして受け入れられている、というリベラルな土地柄。そして、このナイメロス・マーテル家の家督は「長男相続」ではなく「性別に関係なく長子相続」。女性が当主となった場合、その女性当主が産んだ長子が後継者となるから、「女性君主」も「女系君主」も当然ありだ。
 つまり『ゲーム・オブ・スローンズ』ファン……というか、原作『氷と炎の歌』読者ならわかる、ややこしい皮肉なのである。

 しかし、これをリツイートしてくれた唯一の人物は、プロフィールに「遠い昔から田畑で人々の食料を守る……そんな感じでこれからの日本を反日思想から守りたいです。本来の日本を取り戻し、世界でも希にみる歴史国家・日本をこの時代で途切れさせてはなりません」と書いている御仁のみ。
 期待に反して、このツイートの真意に共鳴してくれそうな人からは無反応。思想的には全く嚙み合わなそうな層が、額面通りに受け取って拡散してくれるとはなあ。
..............................................................
 さて、ここからが本題だ。
 発端は、令和初日にわたしがなぜか昭和を振り返ったことにある。

 ツイッターにて、昭和という時代の長さをこう形容したのだ。 「一君主の在位期間としてはUKのヴィクトリア女王に並ぶ世界最長級。前漢の武帝もオスマン帝国のスレイマン1世も驚くほど」。
 すると「高校の世界史では康熙帝が好きだった。ラーメンマンの影響で辮髪が好きだったのかも」というリプライがあった。
 わたしは、こういう無邪気な無神経さに虚を衝かれるのだ。

 ラーメンマンは「日本マンガ界が生んだクリーヴランド・インディアンズ(MLB)のワフー酋長」である……極論するならば。中国と満州と麺料理に対して日本人が抱く混乱したステレオタイプを凝縮した存在だ。
 しかも当初のラーメンマンは対戦相手を惨殺する残虐超人だったではないか。ステレオタイプ化された外見と、極悪無比に設定された内面……最悪の組み合わせである(ま、初期はロビンマスクですら残虐設定なのだが)。
 それが国際的な訴訟沙汰になったりしないのは、描いている方も描かれている方も東アジア人であり、この地域特有の――時として差別されている方が気づかないほどの――レイシズムに関する鈍感さを共有している、という奇妙な幸運ゆえ、だろうか。

 ラーメンマンというキャラクターが持つ危うさをやんわりと指摘しようと思ったわたしは「レイシストが書いた小説も、セクシストやホモフォーブ(同性愛嫌悪者)が描いたコミックも読んできたが、『キン肉マン』からは離れて長い」という主旨のツイートをしたが、それも通じなかった。
 やはり、「期待どおりに文章を受け取ってもらえる」ことは稀なのだ。

 確かに、わたしが語るトピックは我が興味範囲に対応して無駄に幅広いし、万人向けにわかりやすく書いてあるわけでもない。それぞれの話題に明るくない人には暗号と呪文のように見えるかもしれない。
 だから、ここで掘り下げておこうと思う。
..............................................................
 今回はタイトルに「ピエール瀧」が入っているが、当然ながらわたしは電気グルーヴ叩き(および、その作品の出荷停止、在庫回収、配信停止、等)には断固反対だ。
 ピエール瀧が何をしたにせよ、作品に罪はない。
 ……というよりも。そもそも、ピエール瀧が何をしたというのか?

 彼は誰かに害をなしたか? 否。
 誰かを貶めたか? 否。
 ピエールは、成人の多くがやるように自分の体に悪いことをして喜んでいただけである。法律で禁止されている物質なのだろうが、わたしから見るとアルコールと何が違うのかわからぬ。しかもピエール瀧は、あくまでひとり楽しく、自身に害を与えていたのみ。某・丸山穂高と違い、酒に酔った勢いで相手の手を嚙んだり、やはり酔っ払って「戦争で失った領土を戦争で取り戻す提案」もしていない。
 それはcrimeかもしれないがsinではない。そして、sinでない以上、道徳的観点で外野にどうこう言われる筋合いはない、と思うのだ。

「罪を犯したことのない者だけが、この男に石を投げなさい」とも思う。
 その観点では、習慣性・依存性がある事物に弱い連中はすべて同罪だ。 飲酒や喫煙はもちろん罪である。激辛料理好きも、アルカロイド(要は毒物だ)による刺激に溺れている可能性があるから、やはり罪人である。佐山聡や丸屋九兵衛のようにドーナッツ1箱をアッサリ平らげてしまうタイプに至っては、糖分に耽溺した超絶罪人と言える。

 百歩譲って、ピエール瀧が好んで摂取していた物質――本来のコカ・コーラには欠くべからざる素材――が、アルコールより悪質だとしよう。だとしても、ピエール瀧は音楽を通じてそれを推奨していたか? 否!
「作品に罪はない」とはこれゆえである。

 問題は、著者の差別的な姿勢や思想が垣間見える(と思える)作品の場合だ。
 それでも「作品に罪はない」のか?
 ここからは、「レイシストが書いた小説、セクシストやホモフォーブ(同性愛嫌悪者)が描いたコミック」を再訪してみよう。
..............................................................
●『火星シリーズ』by エドガー・ライス・バローズ

 わたしが言うところの「レイシストが書いた小説」。
 第1作『火星のプリンセス』は、雑誌での初掲載から100年後の2012年、ディズニーにより『ジョン・カーター』として実写映画化されたが、「人類史上最大級の赤字大作」とまで言われる結果になったことでも記憶されている……。
 
 ヴァージニア州出身の主人公ジョン・カーターは強く念じることで幽体離脱して火星に到達してしまう……というわけで、SFのくせに「どこにS(サイエンス)が?」と問いたくなるような設定なのは、さすが1912年作。そして、その時代を映すように、ストレートなレイシズムも散見される。
 序盤、地球でのシーンには、ジョン・カーターが「野蛮人どもに何をされるかわからないから」とネイティヴアメリカンを避ける展開がある……実際には、白人がネイティヴアメリカンの皮を剝いでいたのに!
 また火星に着いてからは、赤色人や緑色人、白色人や黄色人、透明人間や合成人間やクモ人間と遭遇するジョン・カーター。問題は黒色人種との出会いである。「元・南軍将校のわたし(=当然ながら黒人を見下してる)から見ても美しい顔立ち」としっかり描写されているのだ! どう捉えていいものやら。

 こうした何気ないレイシズムが著者バローズ自身の傾向であるとは断言できない。しかし、こんなにイグノラントな主人公ジョン・カーターは、徹底して高潔な人格者として描かれているわけだから、バローズの思想も推して知るべし、という気がする(まあ、それを言い出したらエドガー・アラン・ポーだって、H・P・ラヴクラフトだって、レイシストなのだが)。

 だが、それでも。
『火星シリーズ』は我が家のクラシックであり(かつては親族と朗読会をやっていた)、わたしは愛読者なのだ。
..............................................................
●『こちら葛飾区亀有公園前派出所』by 秋本治

 わたしが言うところの「セクシストが描いたコミック」。

 両津勘吉が、女装警官マリアこと麻里愛に注ぐ視線は優しい。なのに、女性警官である秋本 カトリーヌ 麗子がその身体的特徴を揶揄され、生理休暇を理由に二級市民であるかのように言われるのはなぜだろう……と、ずっと思ってきた。
「世の中にそういう思想を持つ男性がいるのは事実、それを描写しているだけ」という考え方もあろう。
 しかし。さまざまな難点はあれ、愛すべき主人公として描かれる両津である。その人物像により深みを持たせるため、あえて欠点を付与して描写している……とは考えにくい。「作者の内面が表れているのでは?」と勘ぐってしまうのだ。

 かくいうわたしは、文庫版「秋本治自薦こち亀コレクション」全26巻を持っている。これはアンソロジーであり、つまり全編を読んでいるわけではないから、わたしはファンを自任しない。でも少年マンガの中では最も好きな作品の一つだ。
..............................................................
●『メイプル戦記』by 川原泉

 わたしが言うところの「ホモフォーブ(同性愛嫌悪者)が描いたコミック」。
 女性だけのプロ野球球団「スイート・メイプルス」がセ・リーグに誕生し、東京タイタンズや中京グリフィンズ、大阪ジャガーズらと、熱いペナントレースを繰り広げるのだ!

 問題はメイプルスのエース投手、唯一の(生物学的には)男性メンバーである神尾瑠璃子(聡史)に関してだ。高校野球で活躍したが、チームメイトへの恋心に悩み、甲子園優勝後に失踪。5年ほどゲイバーで働いていたが、一念発起して女性球団メイプルスに入団、という設定である。そんなトランスジェンダー(広義)の神尾が、高校時代のチームメイトで現在はパ・リーグの西部リンクスで活躍する小早川選手に対して抱く恋心は、メイプルスの面々から支援される。
 そこまではいいのだ。なのに、それらの場面の脇に作者が顔を出し「もー書きたくないよ~」「いっそ殺してちょーだい」と発言したり、絵筆を握りしめたままワナワナと震えたり、脱力するポーズを見せたり。登場人物ではなく作者が自ら、同性愛への違和感を表明するのである。それほどイヤなら、なぜそんなキャラクターを出したのだ?
 川原には『Intolerance... あるいは暮林助教授の逆説』という佳作もあるが、そこでも主人公女性が同性愛の男子学生を「ホモ、ゲイ、性的に倒錯したバイキンくんだ」と形容するシーンがあり、とても痛い。

 しかし、それでもわたしは川原泉ファンだし、彼女の作品の中で『メイプル戦記』が一番好きだ。『笑う大天使』『殿様は空のお城に住んでいる』と並んで、ではあるが。
..............................................................
 わたしは俳優マーク"マーキー・マーク"ウォールバーグが嫌いだ。
 若かりし日に人種ヘイトクライム(黒人児童に投石、アジア系男性を殴り倒して意識不明の重体に)を犯しながら、数週間で出所できたという事実が本当に憎い。今の彼は悔い改めているとしても。
 わたしが映画『トランスフォーマー』シリーズを見なくなったのも、彼が出てきたせいである。

 だが、彼が出演している映画が人種差別を広めているか?
 否。それどころか――ハリウッドではよくある――ホワイトウォッシュ作品すら少ない気がする。
 そんなマーク・ウォールバーグ出演作を拒むくせに、『火星のプリンセス』や『メイプル戦記』を折に触れて読み直すわたし。

 その倫理的線引きはどこにあるのか?
 わたし自身にも見えないのだ。まだ。