人からもらったものには、もらった時点で思い入れはない。突如として私の元へやってきて、その時初めて自分の人生と交わる。これまでどこにいて、送り主のどのような思考回路で選ばれたのか、多くの場合知ることはない。もらったものを家やかばんの中で私という一人の存在に強引になじませていく作業は、考えてみるといささか不自然な行為といえなくもなく、なにか「なじませる」ではない特有の動詞があてられてもよさそうだ。食べ物であれば体内に「侵入させている」し、自分では選ばないような衣服であれば、身につけたことによって私のイメージを「再構築させている」。それをもらうことで変動するあれこれの総称があればいいのに、と思うが、かといって使用する場面はあまりないかもしれない。
反対に、人にあげるものには、これまで生きてきた私のすべてが詰まっているといってもいいだろう。私の行動範囲の中で私の趣味嗜好または私の思惑によって選ばれるのだ。「時間がなくて適当に選んでしまった」という事象でさえ、私の怠惰や計画性のなさが凝縮されている。まさしく私の分身。なのに、自分の元へは二度と返ってこない。
私は舞台を眺めながら、あるものを舞台上のある人にあげた。ただ、あげるつもりはなかった。私の体内から自然と飛び出しただけだ。しかしそれはあまりにも自分自身で、みずから望んで渡したものよりもうんと純度が高かった。「ありがとうございました」というアナウンスが流れた瞬間、咄嗟に心の中で「返して」と叫んでいた。心が感じた不快も嫌悪も、暴力によって奪われたときと変わらなかった。アナウンスは、癇に障る丁寧さの裏で「あなたに価値をつけてあげたんですよ」と開き直っているようでもあった。私の分身の価値を、誰かに決められるなんて耐えられなかった。
客席の明かりがついて、少し前の列に会社の同期がいるのを見つけた。その同期は、日頃苛立ちをぶつける相手に飢えている先輩たちの格好の餌食だった。「まるでサンドバッグだ」と形容する人がいたが、同期は揺れによって衝撃を逃がすことはできなかった。ただ静かにまっすぐと立って受け止めていた。彼は私のメモを見て「字がキレイだね」と言ってくれたことがあった。私はおいしい洋食屋を教えた。彼はいつも、自分自身を奮い立たせるかのように、口角をきゅっと上げてニコニコしていた。
傍からは分かりづらいがそれでも切り取り方によっては確実に「素晴らしい関係」と言ってよいであろう私とその同期の間の空間に、公演中ずっと、私の分身は漂っていたのだ。私が返してと願った、その分身が。同期はこちらを見て少し驚いた顔をしたのち、ゆっくりとマスクを外して、「らふぃずみー」と呟いた。私はほっとした。舞台上から強引に奪い取られたと思っていたものは、彼の背中にずっと与えることができていたのだった。私は彼に向かって、にっこりとした。彼は小さく手招きをして、するすると終演後の人混みの中を抜けていった。私は彼を見失わないように、慌ててコートを羽織り、彼を追った。劇場の扉を開けてロビーに出ると、彼が確かな足取りで、関係者入り口へと消えていくのが見えた。(笑)