加納 Aマッソ

第67回「お酒お酒!」

 食事の席でお酒を飲む人間になった。
 先日、仕事のことで朝から腹立たしいことが重なり、一日機嫌を直せずに夜を迎えてしまった日があった。けれどその夜に仕事仲間との食事があり、次の日も早くなかったので、生まれて初めてあの、「今日は飲むか」という有名感情になったのだ。過去のストレスはたいていジョギングで発散させていたが、その日は体力の残量が不機嫌レベルに追いついておらず、1ミリたりとも動きたくなかった。
 おお、これが世間で言われている「今日は飲むか」か。自分でも驚きながら待ち合わせの店に入り、店内を見渡した。壁には今まで気にもとめなかった日本酒やウイスキーの名前が筆で書かれている。改めて居酒屋のことを「お酒を飲むところ」だと認識する。
 テーブル上にあるメニューを開き、選択肢にあがったこともないハイボールの欄を眺めてみる。向かいに座る相手はいつも頼むドリンクが決まっているのか、はやくも食事のページを開いている。その時急に「あ、年下やん」と思った。
 年齢なんか関係あるかいな! 時代錯誤な! と思う気持ちもあるが、私はとにかくお酒に弱い。年下の仕事相手の前で酔っ払って醜態を晒したくないという消極的な気持ちが働いた。
 やっぱりやめとこかな、迷惑かけるのも嫌やし、明日に響いてもな……と、入店時の勢いは早々に鳴りを潜め、相手の慣れた「ビールで」の後に、及び腰で「緑茶ハイ、薄めで」と注文した。
 しかしながら、旬の魚、野菜の揚げ物、程よく緊張感がある気の良い相手。そこに少しのアルコール。一日中胸のまわりにへばりついていたイライラが、なんと魔法のように消えていった。普段よりも舌がまわり、うまく相槌も打っている。私はずいぶんご機嫌になった。2杯目はどうしようと迷ったが、ギリギリのところでまた年齢による自制心が働き、「……ウーロン茶で」と言った。それでもふわふわとした気持ち良さは抜けず、別れ際には「お互いしゃかりき頑張ろう」なんて青くさいセリフを言い交わし、普段よりも心地良い気分で布団に入った。

 翌朝目覚めた時、ぼんやりとした頭で「昨日は良い日やったな」と思ったのだが、その直後に「違う! 朝からブチギレてたんやった!」と思い出した。間抜けにもほどがあるが、私はそのまま布団に寝転んで「ああ、これがお酒……」と感動していた。お酒は自分に合った「ほどほど」であれば、こんなにすごい威力を発揮するのか。古来からどんなときも人間のそばにあり、飲まれ続けてきた理由が、本当の意味でわかった。頭の中はたちまち町の広場になり、集まった民衆が「お酒お酒お酒!」と喝采を送っている。お酒はすごい! お酒お酒!
 しかしひと通り誉めそやし終えると、「でも私もすごかったよな?」という気持ちがぷつっと湧いた。あのまま調子づいて2杯3杯と重ねていたら、確実に気分が悪くなって、「お酒め……」と恨み節を言っていたことだろう。そうはならずに自分の適量をしっかりと定め、たった一杯の緑茶ハイで自分の機嫌を最上のものにした。となると、本当にすごいのは私の自制心じゃないか。また群衆がきた。私は担ぎ上げられる。自制心! 自制心! 何より立派な自制心!
 自制心がすごい私は、自制心が「自分のおかげで働いた」と傲慢になることも自制できる。私の自制心は、過去のあらゆる人の失敗から学んだものだ。ネットを開けば無数に出てくる。古典落語の世界にも、三国志にも、酒で失敗した人物がいる。
 わかった。本当にすごいのは、文献だ! 教訓を教えてくれるのは全て文献なのである。「文献すごいぞ!」活字に入った民衆が行儀よく叫ぶ。「文献! 文献!」さあ、私のこの文章はどうだ! 文献なのか! はやく誰かの文献たれ!「うおー!」

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