加納 Aマッソ

第65回「大人な精神」

 ラジオのお便りで、大学生の女の子から「大人になることについて」の悩みや質問をもらうことが増えた。20代の頃にもらったファンレターにはそういった内容は書かれていなかったから、私もそれなりに意見を聞きたくなる年齢に達したのだろう。私が学生だったときは、会ったこともない年上のお姉さん作家に文学を通じて教えてもらった。いま、私はオンラインでダイレクトに(時にはうそみたいなタメ口で)聞かれる。なかなかチョロい存在だという気もしなくもないが、芸人なのでまあいい。
 「大人になりたくない」「大人だるい」「大人な態度をとれなかった自分が情けない」 通常、他人に相談する話でポジティブな内容は少ないにせよ、お便りに書かれている「大人」という存在にはあまりにもネガティブな空気が充満している。せっかくならそれらを払拭してあげたいが、それにはまず私が「大人」を把握していないといけない。
 自分の置かれた立場から考えてみる。するととたんにわからなくなる。例えば、バラエティ番組で共演した俳優さんやアイドルが楽しそうにその場を盛り上げてくれると、「あの人は本業ではないのに、サービス精神があって良いな」と思う。サービス精神というのは「自分本位」とは対極にあるので、とても「大人な精神」である。だから、「大人」の要素の一つに「他者ファースト」が含まれるべきだ。だが、収録後に「いや〜今日のあの人はすごく大人だったな〜」とはならない。視聴者も「あの人は演技もできてバラエティも盛り上げて、なんて大人なんだろう」とは思わないだろう。代わりに、その人の横に座り落ち着いたトーンの服を着て静かな声で聞かれたことだけ答えていた女優さんのほうに、「あれこそ大人の女性だよなあ」という評価が集まる。場を盛り上げるというふるまいは精神ではなくポテンシャルであると捉えられる。なぜなら、元から騒がしい人かもしれないからだ。もっと極端にいうと、騒がしくしたい衝動を抑え込めない「子ども」なのかもしれないからだ。芸人も例外ではない。「笑わせるのが仕事」という大義名分の影には「ずっと騒がしくしていたい」「騒がしくすることを仕事にしたい」がある。人前で騒がしくするサービス精神のある「大人」は、渋谷で人の迷惑を顧みずに暴れるクソガキ、いわゆる「子どもの中の子ども」と成分は一緒の可能性はないだろうか。私は覚えている。高校の文化祭の日、「あ〜ずっと今日みたいな日が続いたらな〜」と思ったこと。その横で「なに言うてんの」とたしなめた穏やか友達に対して、「ノリ悪いな」と思ったこと。
 となると、暫定、バラエティ番組で盛り上げている私は「めっちゃ子ども」である。そうであるなら、この状況はおかしい。「めっちゃ子ども」を続けている私にどうして大人のなんたるかを聞いてくるのだ。「めっちゃ大人」に聞くべきではないか。あれか、「めっちゃ大人」は相手にしてくれないからか。同じ側の人間しか話を聞いてくれないからか。誰が同じ側やねん、一緒にすんな。すいませんそこの「めっちゃ大人」、人の相談も乗られへんようでは、まだまだではないですか? ちゃんと若い子の話を聞いてあげるのが大人ではないですか? 誰か、「真のめっちゃ大人」見つけたら教えてください。こっちにきたお便り転送します。

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