世の中ラボ

【第157回】
「ジャニーズ問題」が暴き出したもの

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2023年6月号より転載。

 四月一二日、元ジャニーズJr.のメンバーだった男性が自らの被害体験を実名で証言。ジャニーズ事務所の創業者・故ジャニー喜多川氏の性的虐待事件が波紋を広げている。
 喜多川氏については「週刊文春」が1999年に少年たちへの性的虐待を「セクハラ」と報じ、名誉毀損で訴えられるも、東京高裁は「セクハラ」に関する記事の重要部分は真実と認定した(2004年に判決が確定)。また今年三月には、この件を告発したイギリスBBCのドキュメンタリー番組が放送されている。
 同様の事案として想起されるのはカトリック教会の性的虐待事件である。02年にアメリカのボストン・グローブ紙が報じたのを機に、世界中で行われてきた少年に対する聖職者の性的虐待が発覚。一例として、フランスのカトリック教会から依頼を受けた独立調査委員会が21年に出した報告書は、フランスのカトリック教会では70年間に3000人前後の神父が関与し、21万人超の子ども(多くは少年)が性的被害を受けたと伝えている。
 規模は違えど、二つの事案にはいくつもの共通点がある。被害者の多くが少年(未成年の男性)であること。加害者が圧倒的な権力を持つ成人男性であること。周囲が事実を把握しながらも、長く黙殺あるいは隠蔽してきたことなどである。
 ジャニーズ問題に関していえば、芸能界を舞台にしたスキャンダルである点で、「#MeToo」運動の発端となった17年にアメリカで発覚した性暴力事件(ハリウッドの大物プロデューサーが長年にわたって女優や女性スタッフに性暴力を行ってきたとニューヨーク・タイムズ紙が伝えた)とも重なるところが多い。
 だが、私は別の面でのショックを受けた。未成年の少年に対する性的行為は古代から「少年愛」などの名目で容認され、美化されてきたのでなかったか、とふと思い出したのだ。
 少年への性的虐待は、男性しかいない空間で起きやすい。中世近世の武家社会、伝統宗教、そして近代の軍隊、男子校の寄宿舎、スポーツチーム……。そういうことは漠然と察知してはいたものの、そこに犯罪性が入り込む余地があること、少女だけでなく少年も被害者になり得ることを、私たちはきちんと認識してこなかったのではあるまいか。はたしてそこに「闇」はなかったのだろうか。

明治の中高大学で起きた事件
 少年愛を甘美な体験として描いた文学作品は、実際、枚挙に暇がない。たとえば稲垣足穂『少年愛の美学』である。
 古今東西の文献を渉猟して「少年愛」について論じたこの本は名著(奇書?)として知られている。本の大部分は臀部ないしは「A(アヌス)感覚」に対する偏愛的な考察で、それ自体は趣味の範囲だし、同性愛を賞揚している点では意味もあろう。しかしながら、次のような箇所にはやはりドキッとせざるを得ない。
〈女性は時間と共に円熟する。しかし少年の命は夏の一日である。それは「花前半日」であって、次回はすでに葉桜である。原則的には、彼が青年期へ足をかけ、ペニス臭くなったらもうおしまいである。(略)当人が幼年期を脱し、しかもP意識の捕虜にならないという、きわどい一時期におかれている。云わば薹が立つまでの話である。声変りと共にそろそろ形が崩れてくる〉。
 少年固有の「性的価値」を解説したくだりである。
 さらにいわく。〈異性愛は広き門である。(略)それに反して少年愛はきわめて狭き門である。「教師や監督者の中に小児を性的に誘惑する者が非常に多いのは、その好機会が与えられているという理由だけによって説明される」フロイトが述べているように、ある境位に恵まれない限り、何とも手の打ち様のないものである〉。
 少年愛は狭き門。なぜなら〈少年愛に目ざめるためには特権階級に身を置く必要〉があり、また少年は〈先方が別に待機しているわけでなく、実に根気の要る開発であるからだ〉。
 足穂の文学的な才能を私は否定しないが、ま、いい気なものである。足穂は(そしてフロイトも)、年長者、権力者の側からしか少年愛を見ておらず、襲われる少年の側の都合は一顧だにされていない。これは同性愛の是非とは別次元の問題である。異性間においても性行為一般と性暴力が区別されるのと同じである。
 事実、かつての男子校では相当乱暴なことも行われていたようだ。丹尾安典『男色の景色』は大杉栄らの例を紹介している。
〈大杉はよく少年をおそった。うまくやったとみえ、「僕と同じ寝室のものゝ中へははいりこまなかつたが、よく遊びに行つた左翼の寝室のものからは何んの苦情も出なかつた」〉。
〈今東光も谷崎潤一郎に告白している、「中学時代は盛んにやりました。同級生だけで三人、下級生は美少年の限り手当たり次第でした」「仕舞いにはドスを懐に忍ばせて、下級生の稚児争いを上級生の奴らとやりまして、大騒ぎになったこともあります」〉。
 若き日の蛮勇として、彼らが自慢たらたらにこの件を語っている点に注目したい。これが当時の「文化」だったのだ。
 生徒同士とはいえ、上級生と下級生の力関係は非対称である。師弟関係となればなおさらだ。たとえば井伏鱒二。早稲田の学生だった頃、井伏は露文科の教授・片上伸に目を掛けられていた。井伏は自らの作品(『雞肋集』)でこのことを書いている。
〈肩口氏(註・片上のこと)は体質的に非常に気の毒な人でたまたま人のゐないところで教へ子を見ると、目の色を変へ身ぶるひする発作を起すことがあるといふことであつた〉〈肩口氏は私の下宿の町名番地をたづねて手帳に書きとめたが、途端に例のその発作を起さうとした。これはたいへんだと私が仰天して逃げ出さうとすると、肩口氏は腕をのばして私の襟首をつかんだ。猛烈な握力であつた〉。井伏は後に肩口(片上)の手紙を受け取った。
〈手紙には今日のことを絶対に他言してはいけないと書いてあつた。そしてもし他言したら君はどんな目にあはされるか知つてゐるだらう。君もそれを知らないほどのばかではあるまい〉。
 こんなことがあって井伏は大学を中退。片上も「教え子に対するかずかずの男色事件」が原因で大学を辞めている。
 今日の大学のセクハラ事件と同種の事態といえるだろう。
 それでも井伏は片上への敬意を失わなかったらしい。被害者であるジャニーズの元少年たちがジャニー喜多川氏には今でも感謝していると語るのと似た構図(いわゆるグルーミング)である。

硬派な同性愛と文弱な少年愛
 年上の男性が少年を性愛の対象にしてきた歴史は古い。西洋でも日本でも、貴族や武士や僧侶の世界でそれは当たり前の風習だった。それを今さらどうこうしようというわけではない。問題は、人権意識が確立された現代においてもそれは許されるのか、である
 少年愛を描いた日本の文学作品を集めたアンソロジー『少年愛文学選』の「編者解説」で、編者の高原英理は「少年愛」という言葉が日本で使われはじめたのは明治以降だと述べている。
〈江戸時代の男性同性愛は「男色」あるいは「衆道」と呼ばれ、それは男性の性欲が男性(多くは年下・目下の相手)に向いた場合で、女性にそれが向かう「女色」と対をなす「性欲の方向」を意味していた〉。同性愛への禁忌の意識はなく〈たとえそこに恋愛的感情があったとしても、まずそれは支配と被支配の関係を意味した〉。
 高原が説く男性同性愛の近代史は興味深い。
 江戸期において〈男色の場では年長男性を念者と呼び、年少者を稚児(あるいは若衆)と呼ぶ。それはおよそ愛する者と愛される者、犯す者と犯される者の対として考えられていた〉。
 明治維新以降は、ここに政府の一翼を担った薩摩藩の思想(女性蔑視、男色好み、武断性、攻撃性)が加わって、明治の書生・学生たちに「硬派」という行動様式を作らせた。
〈彼ら「硬派」は、「女好き・遊蕩好きな文弱の徒」である「軟派」の書生たちと自身とを区別し、それへの軽蔑の姿勢を見せた。なお当時の「硬派」には、暴力的であるだけでなく、「男性同性愛を好む者」「少年を襲う者」の意味もあった〉。
 文学上の少年愛はそれと一線を画している。むしろそれは〈江戸の武士的男色の在り方をいくらか継承しながら、そのいくつかの要素に対する批判として展開した〉と高原はいう。〈武士的な攻撃性は強く否定し、文弱の美少年であることを理想とし〉、支配被支配の関係を超えた同年代の少年同士の対等な恋愛を描くことが増え、次いで〈軟弱な少年である自身をその魅力と美しさゆえに肯定し、硬派的な「犯しに来る男」を否定するに至〉った、と。
 このような観点から発見された作品を集めたというだけあり、このアンソロジーに収められた作品のほとんどは、同年代の少年同士の対等でプラトニックな恋愛を描いた短編である。
 という意味では、もちろん少年愛を一概に否定することはできない。がしかし、実社会においては今もなお、支配被支配の関係に依拠した、歪んだ「少年愛」が実践されていたことを、カトリック教会やジャニーズ事務所の一件は暴き出した。〈同性愛と切りはなすことの出来ないのは師弟愛である。/濃やかなる師弟愛のあるところには必ず同性愛がある〉と昭和初期の文献(伊福部隆輝「同性愛への一考察」)はいう(『男色の景色』)。
 男性への強制性交罪が明文化されたのは2017年施行の刑法改正の際だった。それまではいわば「放置」だったわけである。ジャニーズの一件は氷山の一角ではないのかという疑念が拭えない。少年への性虐待も「#MeToo」運動のような広がりを見せるのか。一芸能事務所の問題ですむとはとても思えないのである。

【この記事で紹介された本】

『少年愛の美学――A感覚とV感覚』
稲垣足穂、河出文庫、2017年、1320円(税込)

 

〈A(アヌス)感覚はV(ヴァギナ)とP(ペニス)の分化に先立ち宇宙的郷愁を伝えてくれる〉(帯より)。原著が出版されたのは1973年。併録された「A感覚とV感覚」の初出は1954年。衒学的な書ではあり、大部分は「ああ、そうですか。ご勝手にどうぞ」な世界だが、少年をあくまでも鑑賞の対象、開発の対象と捉えており、少年側からの視点がほぼ皆無である点にひっかかる。

『男色の景色』
丹尾安典、角川ソフィア文庫、2019年、1056円(税込)

 

〈万葉集、世阿弥、琳派、三島、川端――/日本文化史を艶に彩る男と男のいる風景〉(帯より)。文学作品から雑誌資料、美術作品までを広く渉猟し、日本文化に深く根を下ろしていた男性同性愛文化を紹介する。通史ではなく断片の集積といった趣が濃いものの、古代から現代までを一応網羅。江戸期の武家や僧侶の世界、明治の学生の乱暴な文化、戦後のゲイバーまでエピソードは豊富。

『少年愛文学選』
高原英理編、平凡社ライブラリー、2021年、1980円(税込)

 

〈国家的暴力・家父長的暴力へのアンチテーゼとして生まれた少年愛の文学〉(カバー裏表紙より)。折口信夫「口ぶえ」、江戸川乱歩「乱歩打明け話」、武者小路実篤「彼」、稲垣足穂「RちゃんとSの話」、川端康成「少年(抄)」など、明治末から昭和半ばにかけて発表された、男性作家15人の作品を収録。プラトニックな少年同士の恋愛を描いた作品が多い。編者の親切な解説が秀逸。

 

PR誌ちくま2023年6月号

関連書籍

斎藤 美奈子

忖度しません (単行本)

筑摩書房

¥1,760

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入

斎藤 美奈子

本の本 (ちくま文庫)

筑摩書房

¥1,650

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入