2024年1月1日、石川県の輪島市や珠洲市とその周辺を襲ったマグニチュード7.6、最大震度七の能登半島地震。火災、津波、家屋倒壊などによる死者は245人(うち震災関連死15人。ほか行方不明者3人)にのぼり、全壊家屋は8500戸超。五月になっても約4000戸で断水が続いている。
ところで、こうした大地震が列島を襲うたびに話題になるのが「次はいよいよ南海トラフ地震か」という想定問答だ。
南海トラフとは、伊豆半島の付け根の駿河湾から四国西側の日向灘沖に至る広い地域(フィリピン海プレートとユーラシアプレートが接する海底)を指し、うち紀伊半島先端の潮岬から東側で発生する地震を東海地震ないし東南海地震、西側で発生する地震を南海地震と呼ぶ。その総称が南海トラフ地震で、政府の地震調査委員会は、この地域における30年以内のマグニチュード8~9クラスの地震の発生確率は70~80%だと喧伝している。
しかしもし、政府の発表自体に疑義があったら? 実際、過去30年の大地震を振り返っても、阪神・淡路大震災(1995年)、東日本大震災(2011年)、熊本地震(16年)、能登半島地震(24年)と、すべて南海トラフを外れているのだ。
この件に関しては昨年8月、興味深い本が出版されている。小沢慧一『南海トラフ地震の真実』である。だが、その話は後回しにして、ひとまず南海トラフ地震とは何かからはじめよう。
発生確率、じつは20パーセント?
南海トラフ地震の概要について、もっともよくまとまっているのは山岡耕春『南海トラフ地震』(16年刊)だろう。
〈南海トラフ地震は、必ず起こる。日本列島に住み、生きていくかぎりは避けられない、いわば「宿命の巨大地震」である〉。
この地震は、フィリピン海プレートと呼ばれる海底が南海トラフから西日本の地殻の下に、北西向きに沈み込んでいることに由来する。その速度は年間5センチ程度だが、100年蓄積すれば5メートル。このひずみが限界点に達すると、陸側のプレートが跳ね上がって揺れが起こる。これが南海トラフ地震である。
このエリアで発生した地震は、文書資料で西暦600年頃まで遡ることができる。古いほうから、684年、887年、1096年および1099年、1361年、1498年、1605年。100〜200年の間隔で巨大地震が発生している計算だ。
特に重要なのは直近の三つの地震(1707年の宝永地震、1854年の安政地震、1946年の昭和南海地震)で、政府の地震本部は三地震のデータ(高知県室津港の隆起量と次の地震までの時間の相関関係)から〈今後三〇年間の発生確率が六〇~七〇%程度〉という長期評価を出している(%は13年発表のもの)。
南海トラフ地震が他の地震、たとえば東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)と異なる点は大きく二つ。
ひとつは地震発生のメカニズムで、東北地方太平洋沖地震を起こした日本海溝沿い(東北地方)のプレートは地震活動が活発であるのに対し、南海トラフ沿いの地震活動は普段は静かだ。つまりこの地域は〈いきなり巨大地震が発生する〉場所なのだ。
もうひとつは社会的条件の違いで、東北地方太平洋沖地震の直接の被害を受けた県の住民は約980万人。一方、南海トラフ地震の影響を受ける太平洋岸の県の人口は計約3500万人。この地域はまた東海道新幹線や東名自動車道が通る太平洋ベルト地帯に当たっており、物流や経済に与える影響は計り知れない。
読めば誰もが納得するだろう。南海トラフ地震が要警戒地震であるのは疑いえない。とはいえ、南海トラフ南海トラフと唱えている間にも別の地域で大地震が起きたことをどう考える?
そこで、小沢慧一『南海トラフ地震の真実』だ。
この本は地震学者(鷺谷威)の衝撃発言からはじまる。〈南海トラフ地震の確率だけ『えこひいき』されていて、水増しがされています。そこには裏の意図が隠れているんです〉。
18年、地震調査委員会が30年以内の発生確率を「70%程度」から「70〜80%」に上げた際の発言である。
〈80%という数字を出せば、次に来る大地震が南海トラフ地震だと考え、防災対策もそこに焦点が絞られる。実際の危険度が数値通りならいいが、そうではない。まったくの誤解なんです〉〈南海トラフだけ、予測の数値を出す方法が違う。あれを科学と言ってはいけない。地震学者たちは『信頼できない』と考えています〉。
いったいどういうことなのか。
南海トラフ地震の発生確率は「時間予測モデル」と呼ばれる〈特別な計算式〉から導かれている。これは1980年に島崎邦彦東大名誉教授(当時は助手)らが発表した仮説で、プレートが跳ね上がるまでの〈限界点は常に一定で決まっており、次の地震が起きるまでの時間と隆起量は比例する〉という考え方に基づく。過去の隆起の記録が残っている三箇所のうち、特に室戸岬に近い室津港の隆起量は仮説にぴったり合致し、島崎論文は脚光を浴びた。
地震調査委員会がこの「時間予測モデル」をもとに南海トラフ地震の「長期評価」を最初に発表したのは01年(01年評価)。30年以内の発生確率は東南海地震50%、南海地震40%だった。13年には東海地震、東南海地震、南海地震と分けられていた地震を南海トラフ地震に一本化する形で二回目の長期評価(13年評価)が出され、60〜70%という数値が示された。
ところが、他の全国の地震で使われている計算式は「単純平均モデル」(過去に起きた地震の発生間隔の平均から確率を割り出す方法)で、こちらに従えば南海トラフ地震の発生確率は20%に落ちる。これが「えこひいき」「水増し」の意味である。
事実、13年の時点では、地震学者から〈室津港1カ所の隆起量だけで、静岡から九州沖にも及ぶ南海トラフ地震の発生時期を予測していいのか〉、過去三回の地震だけでは〈圧倒的にデータが不足しており、たまたまうまく法則が当てはまって見えているだけなのでは〉などの指摘があり、他と同じ「単純平均モデル」で行こうと意見がまとまりかけていた。が、そこに行政担当者や民間企業の担当者を含む「政策委員会」が横やりを入れた。〈『確率を下げることはけしからん』と言われたんです〉(鷺谷)。
せめて両論併記だけでもという意見も通らず、こうして地震学者の多くが納得していない60〜70%(一八年以降は70〜80%)説が報告書に記され一人歩きをはじめた。小沢の表現を借りれば〈行政的な都合で科学的判断が変えられ〉たことになろう。
地震は来ないと思っていた
取材を進めると、さらにいくつもの事実が浮かび上がってきた。
まず、01年評価に「時間予測モデル」が採用された経緯。議事録には〈低い値にすると、今すぐ何もすることはないと受け取られる〉という提唱者・島崎の発言が残り、また当時の委員の一人は〈南海トラフで危機が迫っていると言うと、予算を取りやすい環境でもあったんです〉と告白している。きわめて恣意的である。
より重要な室津港のデータに対する疑義も浮上した。
島崎論文が「時間予測モデル」の根拠にしたのは今村明恒旧帝大教授の論文(1930年)で、そこには宝永地震後の室津港の隆起量は1.5メートル、安政地震後の隆起量は1.2メートルと記されている。だが今井論文は測量方法や測量時の潮位が不明で、誤差があまりにも大きい。加えて由々しき事態が判明。室戸は地震のたびに土地が隆起するため、何度も港が掘り下げられてきたというのだ。だとしたら時間予測モデルの根拠そのものが瓦解する。
防災意識が上がるなら、数字が多少大袈裟でもよいではないかという意見もあろう。だが問題は、南海トラフを「えこひいき」した結果、他の地域の防災が軽視されることである。
実際、熊本県は、熊本地震(16年)で活動した布田川断層帯の30年以内の地震発生確率が0〜0.9%であることを企業誘致のPRに使っていた。発生確率が1%を切っていれば、防災担当者が〈地震は来ないと思ってしまいました〉と考えても無理はない。確率予想は対策をしない理由にもなり得るのだ。30年という数字にも特に根拠はないというから、何をかいわんや。
そもそも地震予知は可能なのか。あるいは予知に意味はあるのか。ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』は〈予知研究者にとって、東海地震は「一石四鳥」の役割を果たした〉と述べている。①国民の恐怖を煽る道具にできる。②予知すると称して予算と人員を獲得できる。③現行の体制を継続させる時間稼ぎができる。④防災の名目で巨額の公共事業を重点配分できる。
その上で〈「地震は予知できる」という考えは、幻影にすぎない。未来に希望的観測をもつのは自由だが、「地震は予知できる」という願いは妄想だと断言できる〉とゲラーはいう。
13年評価が出た年は第二次安倍政権の発足直後だった。「コンクリートから人へ」という旧民主党政権のスローガンに代わって打ち出された「国土強靱化計画」。南海トラフ大合唱の陰に土木利権や過疎地切り捨ての発想がなかったといえるだろうか。
日本列島はいつでもどこでも大地震が起きる可能性がある。〈今のような30年確率は止めるべきだ〉〈できる「フリ」はすべきではない〉と小沢はいい、〈行政や政治にとって都合よく聞こえる研究ばかりをピックアップして、貴重な税金をつぎ込むことはもうやめよう〉とゲラーは提唱する。能登半島地震の惨状を見れば、この国の防災および被災者対策が不十分なのは明らかだ。徒に恐怖を煽る前に政府がやるべきことはまだまだあるはずなのだ。
【この記事で紹介された本】
『南海トラフ地震』
山岡耕春、岩波新書、2016年、946円(税込)
〈日本列島の宿命ともいえる巨大地震。いつ来るのか。何が起きるのか。どう備えるのか〉(版元HPより)。著者は名古屋大学教授・地震予知連絡会副会長(当時)。地震のメカニズムから想定される被害まで基礎情報を網羅。類書にありがちなセンセーショナリズムに走ることなく全容を解説した好著。発生確率については単純平均モデルによる25%と、政府発表の70%が併記されている。
『南海トラフ地震の真実』
小沢慧一、東京新聞、2023年、1650円(税込)
〈能登半島地震でもあらわになった「まやかしの確率」〉(帯より)。著者は中日新聞(東京新聞)記者。多く地震学者や関係者を取材し、議事録や古文書に当たり、現地を歩いて「真実」に迫った労作。本書の元になった新聞連載は20年の科学ジャーナリスト賞を、本書は23年の菊池寛賞を受賞。なお著者は1月の新聞で能登の地震発生確率が0.1〜3%未満だったことも暴いている。
『日本人は知らない「地震予知」の正体』
ロバート・ゲラー、双葉社、2011年、1100円(税込)
〈打ち出の小槌と化している東海地震、日本の防災をダメにしている元凶〉(版元HPより)。著者は84年に来日、99年から2017年まで東京大学教授(現在名誉教授)。地震学者の立場から日本の地震予知を批判した書。「東日本大震災を完全に見逃した地震調査研究推進本部を信じるべきではない」と手厳しい。3・11直後(11年8月)の本ながら、今読んでも教えられるところ多し。