世の中ラボ

【第162回】
ジャニーズ事件から考える「ビジネスと人権」

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2023年11月号より転載。

 故ジャニー喜多川の性虐待事件(ここではジャニーズ事件と呼んでおこう)が、芸能スキャンダルの領域を大きく超え、日本社会をゆるがす大騒動に発展している。
 事態を大きく動かしたのは、8月4日、国連人権理事会「ビジネスと人権」作業部会が発表した調査報告だろう。報告の内容は多岐にわたるが、ジャニーズ事件については「同社のタレント数百人が性的搾取と虐待に巻き込まれるという、深く憂慮すべき疑惑が明らかになった」と明言。メディアの責任にも言及した。
 その後、事務所の委託を受けた「再発防止特別チーム」が厳しめの内容の報告書を提出(8月29日)。9月7日には同事務所が会見し、東山紀之を新社長とする新体制を発表したが、解体的出直しにはほど遠い改革案だったため批判が殺倒。スポンサー企業の契約見直しなどが続いた。10月2日の二度目の会見では、分社化(現事務所は改名して被害者補償に専念した後に廃業、別にタレントとエージェント契約を結ぶ新会社を設立)を発表するも、この会見には「指名NG記者リスト」が存在していたという体たらく。
 もはや救いようのない同事務所だが、この件で重要な論点が顕在化したのも事実である。関係書籍を読んでみた。

人権デューデリジェンスって何?
 まず、事件の概要をざっと見ておこう。
 ジャニーズ関連本の多くは、称賛と忖度だらけのヨイショ本。そんななか、同事務所の負の部分も公平に検証しているのが『増補新版 ジャニーズ50年史』(2016年)である。
 個人事業主としてのジャニーズ事務所が発足したのは1962年(法人化されたのは75年)。4人の少年(真家ひろみ・飯野おさみ・中谷良・あおい輝彦)で結成されたジャニーズが最初のタレントだった。彼らは当初、タレントを養成する新芸能学院に所属。レコードデビューしたのは二年後の64年だった。
 看過できないのは、このころからジャニー喜多川の性虐待がすでにはじまっていたことである。
 67年、授業料やスタジオ使用料などが未払いだとして、学院の代表者がジャニー喜多川を訴えた。この時の裁判で公になったのが彼の性加害(『50年史』の表現では「ホモセクハラ」)だった。「女性自身」(67年9月25日号)が「ジャニーズを巡る〝同性愛〟裁判」というタイトルで記事にしている。
〈学院をやめた理由のひとつとして、いかがわしい事件があったと他の証人たちがいっていますが、あなたはそのことを知っていますか?〉という弁護士の質問に、4人は〈何のことか知りません〉〈覚えていません〉などと曖昧に答えただけだった。が、続けて『50年史』は書く。〈この時、徹底的にホモセクハラを社会的に追及しておけば、その後も続くジャニーズのホモセクハラは起らなかったかもしれない、と考える関係者は少なくない〉。
 喜多川の性虐待を告発した最初の本は、フォーリーブスの元メンバー・北公次の『光GENJIへ』(88年)だったが、それより二〇年も前にことは発覚していたのである。
 裁判で真実を語れなかった元ジャニーズの中谷良も、89年に本を出版。〈北自身が10冊以上上梓した他、中谷良、平本淳也、木山将悟らOBも暴露本を出版〉するという事態に至った。
「噂としては知っていた」という人がいう噂とは、右のような告発本や告発記事も含んでいただろう。99年には「週刊文春」がジャニーズ事件告発キャンペーンを張り、ジャニーズ事務所は文春を名誉毀損で提訴。2004年には最高裁がジャニーの性虐待(セクハラ)は事実と認定した。しかしメディアの反応は鈍かった。要はたかだか芸能界のゴシップと切り捨てられたのだ。
 ではなぜ今、これが大問題に発展したのか。
 重要な要因のひとつはビジネス界の人権意識の変化である。国連作業部会の報告と、スポンサー企業の契約見直しを機にジャニーズ事件を見る目が変わったことに注目したい。
 羽生田慶介『すべての企業人のためのビジネスと人権入門』は厳しく釘を刺す。〈昨今のニュースで飛び交う「ビジネスと人権」が指す領域は、従来とは全く違うものになっている。企業が守るべき「人権」の範囲や定義は日々変化し、広がり続けている。この変化に気づかず、昔の感覚のままで「我が社は関係ない」と思っていたら痛い目に遭うことになる〉。
 ここで出てくるのが人権デューデリジェンス(人権DD)という概念である。人権DDとは〈人権リスクのアセスメント(調査や評価)を実施し、それを通じて特定したリスクを予防・是正し、外部にも情報公開していく一連のプロセス〉のこと。
 人権に抵触する疑いが浮上した時点で、すみやかに調査を実施し、再発防止策を策定し、情報を公開しなければならない。企業が配慮すべき人権リスクは広範囲にわたる。パワハラ、セクハラ、差別的対応や差別的表現、労働環境(安全衛生、労働時間、賃金の不足や未払い、結社の自由、強制労働、児童労働など)、プライバシーの権利、知的財産権、表現の自由、居住移転の自由、消費者の安全と知る権利、先住民や地域住民の権利……。
 しかも人権DDは、サプライチェーン(原料や部品の調達先から物流・販売を含む取引先)のすべてに適用される。つまり取引先が人権侵害を犯していたら、自社にも責任が及ぶのだ。
 論拠は2011年に国連人権理事会で採択された「ビジネスと人権に関する指導原則」だ。指導原則に法的拘束力はないものの、欧米各国ではこれに基づく法令が次々施行されており(米カリフォルニア州12年、イギリス15年、フランス17年、オーストラリア19年、ドイツ23年など)、やっと日本も重い腰を上げ、22年9月、経産省が人権DDのガイドラインを公表した。
 人権リスクに企業が抵触した例は枚挙に暇がない。
 有名なのは中国・新疆ウイグル自治区の例だろう。この地域では少数民族ウイグル族に対する強制労働などの人権侵害がかねて問題になっていた。オーストラリアのシンクタンクは20年の調査報告書で、グローバル企業82社がウイグル族を強制労働させている中国の工場と取り引きしていると指摘。ここには11社の日本企業が含まれており、各社は対応を迫られた。
 また、世界最大の飲料メーカー・ネスレは05年から一五年間も児童労働関連の裁判を抱えていた。子ども時代にコートジボワールのカカオ農園で強制労働させられたとする六人がネスレ米国法人など二社を訴えたのだ。実際に強制労働をさせていたのはネスレの子会社や農園ではなく、その取引先の農園で、ネスレは勝訴したが、それでも裁判に費やされたリソースは計り知れない。
 そのような状況を考えれば、世界マーケットを相手にする企業が続々とジャニーズ事務所との契約見直しに踏み切ったのも、当然の判断といえるだろう。鈍いのはテレビ各局のほうだったのだ。

人権は「道徳」ではない
 人権に対する日本の意識はそもそも著しく遅れている。
 国連「ビジネスと人権」作業部会が来日したのも、べつにジャニーズ事件の調査だけが目的ではなかった。8月4日に発表された報告が「リスクにさらされているステークホルダー集団」にあげたのは、女性、LGBTQI+、障害者、先住民族、被差別部落、労働組合、さらに福島第一原発事故の被災者や原発労働者、技能実習生などで、朝鮮人・中国人差別への言及もある。にもかかわらず、ジャニーズ事件に関する部分「だけ」が報道された点にも、メディアの人権意識の低さが露呈している。政府も同じで、国連から示された度重なる人権勧告を、日本政府は平気で突っぱねてきた。
 藤田早苗『武器としての国際人権』によると、四年半に一度行われる国連人権理事会の普遍的定期的審査(UPR)で、17年、日本は217の勧告を受けた(23年は300)。こうしたことも日本ではほとんど報道されず、政府高官の反応も鈍い。
〈日本には「人権は困っている人のためのもの」「弱い立場の人の問題」と考えている人が多い〉と藤田は嘆く。日本ではまともな人権教育すら行われていないのだ。人権教育は「道徳教育」の一環と理解され、心情的な〈優しさ・思いやりアプローチ〉が幅を利かせている。だが、人権は「道徳」ではない。
 国連高等弁務官事務所は〈生まれてきた人間すべてに対して、その人が能力・可能性(potential)を発揮できるように、政府はそれを助ける義務がある。その助けを要求する権利が人権〉だとし、政府に三つの義務を課している。①人がすることを尊重し、不当に制限しないこと(尊重義務)、②人を虐待から守ること(保護義務)、③人が能力を発揮できる条件を整えること(充足義務)。
〈人権について思いやりを強調するときに起こる問題は、「政府の義務」の議論が抜け落ちることである〉という指摘は重い。
 ジャニー喜多川の長年にわたる性虐待が放置されてきたのも、日本社会の人権意識の低さと当然、無関係ではない。3月に放送されたイギリスBBCのドキュメンタリー番組(「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」)が発端だったため「日本はいつも外圧で動く」と揶揄されたが、黒船頼みも致し方ないところ。人権に関して、日本はいまだ鎖国状態にあるからだ。
 せめてこの機に、私たちは人権意識をリニューアルすべきだろう。法令の整備はもちろん、マスコミ各社の人権研修は必須だし、学校での本格的な人権教育も喫緊の課題である。でないと同じことがまた起きる。自分の身に起きていることが重大な人権侵害だと知らなければ、子どもたちは自分の身を守ることもできないのだ。

【この記事で紹介された本】

『増補新版 ジャニーズ50年史――モンスター芸能事務所の光と影』
ジャニーズ研究会編著、鹿砦社、2016年、1540円(税込)

 

〈ジャニーズ創設50年の光と影/その歴史を詳細にまとめた初の書‼〉(帯より)。『ジャニーズ50年史』(14年)をSMAP解散騒動を機に改訂した増補版。50年代末〜2010年代の同社の歴史をトップアイドルの動向を中心に詳説。多くのメディアがスルーしたスキャンダルも執拗に拾っているのが類書との差で、ジャニー喜多川の存命中に出版されていた点も特筆される。

『すべての企業人のためのビジネスと人権入門』
羽生田慶介、日経BP、2022年、2200円(税込)

 

〈「脱炭素」の次は「人権」が来る!〉(帯より)。著者は経産省のアドバイザーなども務めるコンサルティングの専門家。今般急激に整備された「ビジネスと人権」のルールを解説する。豊富な実例やチェックリストなどを示した企業人向けの本だが、人権デューデリジェンス、サプライチェーン、ステークホルダー……といった新語に戸惑っていた一般読者も目から鱗が落ちること必至。

『武器としての国際人権――日本の貧困・報道・差別』
藤田早苗、集英社新書、2022年、1100円(税込)

 

〈すべて、人権の問題です!〉(帯より)。著者はイギリス在住の国際人権法専門家。13年の特定秘密保護法案や17年の共謀罪法案を自ら英訳して国連に通報した経験なども踏まえ、国際的な人権基準と日本の人権感覚のズレを説く。コロナ禍で拡大した貧困、報道の自由の侵害、女性差別、入管法の問題点など論点は多岐にわたるが、国際人権を差別解消に使うべきだという視点が新鮮。

PR誌ちくま2023年11月号

 

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