稚児と僧侶の恋物語――「秋の夜の長物語」
さてここでは「秋の夜の長物語」をとりあげて、実際にどのように男同士の恋愛が描かれているのかを確認しておこう。
まず物語の設定として、この物語はとある寺で、老僧が、僧侶たちに、最近きき知った話があまりにあわれに尊いものであったので、老の寝覚めに語って聞かせるというかたちをとっている。「面々に枕をそばだてたまへ」といっているから聞き手は複数人の僧侶たちであろう。語られたのは秋だったので、それで「秋の夜の長物語」というタイトルがついているのである。
物語は、稚児との恋愛が比叡山延暦寺と三井寺の、いわゆる山門、寺門の争いへと発展する、まことに大がかりなものとなっており、皇帝派と教皇派で敵対する家の男女が恋愛する『ロミオとジュリエット』を描いたシェイクスピアばりの筋である。どうも山門と寺門の二人が恋をするというのは当時実際にあったようで、『後拾遺和歌集』741番歌に、次の歌がある。
思ひけるわらはの三井寺にまかりて久しく音もしはべらざりければよみはべりける
僧都遍救
逢坂の関の清水やにごるらん入りにし人のかげの見えぬは
(逢坂の関の清水はにごっているらしい 三井寺に入ってしまった人の影が映っていないのは)
遍救は延暦寺の僧と考えられており、詞書によれば、恋仲にあった稚児が三井寺に行ってから、しばらく音沙汰もないのである。そこで、もう濁って姿が映らない関の清水といいながら、二人の関係も濁ってしまって、もう逢えなくなったのではないかと詠んでいる歌である。僧都遍救の歌からは、比叡山と三井寺の対立があること、比叡山の僧と三井寺の稚児が恋人同士になっていることなどが読み取れて、この歌は大きな物語的構想力を秘めた一首であることがみてとれる。
さて「秋の夜の長物語」の主人公には、遍救ではなくて、別に実在した瞻西上人(?~1127)名があがっているのだが、それはまったくのフィクションである。
たとえば『校註日本文学大系』第十九巻に収録された本文では、「後堀川の院の御宇」に時代設定されているが、後堀川(1212~1234)の在位期間は1221~1232年であり、1232年に譲位して院政を開始して二年で死去しているから、1127年にすでに没している瞻西上人(せんさいしょうにん)と関わりようもない。瞻西上人は、『千載和歌集』『新古今和歌集』などの歌集に歌が入首するほどの風流人ではあったが、そこに稚児との恋歌が辿れるわけではない。
「秋の夜の長物語」のあらすじは以下のようになる。瞻西上人は、若い頃、比叡山の東塔、勧学院の僧侶であり、宰相の律師桂海とよばれていた。壮年になった頃、いつまでも悟りがひらけないので、石山寺に籠る。すると夢に「容顔美麗なる稚児」が現れ、雪のように桜の花びらが舞い散るなかを歩み去っていく姿を見た。これは所願成就の夢相なのだ!と喜ぶが、それ以来、夢に見た稚児の面影が片時も離れない。あるとき、三井寺の前をとおりかかると垣根ごしに桜の咲いているのが見えた。門のそばから覗くと、16歳ぐらいの稚児が庭に出て桜の枝を折り、歌を詠むのが見えた。その姿は「これも花かとあやまたれて」風にさらわれてしまうのではないかと思えるほどで、気が気ではない。桂海は、彼をすっぽりと覆ってしまえる袖になりたい、雲にでも霞にでもなって隠してしまいたいと思うのであった。ふと風が吹き扉を「きりきりと」ならす。稚児は、誰か人がいるのかしらんと花を手に持ったまま歩いてくる。美しさをいうなら、まずは髪の描写だ。「海松房(みるぶさ)の如くにて、ゆらゆらとかかりたる髪のすぢ」は、柳に糸がまといついてひきとどめたようで、見返るその目つき、顔だちが、石山寺の夢で見た稚児なのだった。
この稚児は花園大臣の子で名を梅若君というのであった。桂海は、梅若君に仕える童にかたらい仲介を頼む。桂海がはじめに贈った歌。
しらせばやほの見し花の面影に立ちそふ雲のまよふ心を
ほの見し花の面影にそっとよりそっていた雲が私です。あなたに夢中になっている心のうちを知らせたい、というのである。いくたびかの歌のやりとりがあって、いよいよ桂海は三井寺に入り込む。口実は、三井寺の守護神たる新羅(しんら)大明神のもとに七日籠るというもの。その間、夜な夜な梅若君と枕を共にする。あっという間に日数がたって、いつまでもここにいるわけにはいかないと桂海は比叡山へ戻ることになった、最後の夜を過ごしたあとの梅若君の色っぽさといったらない。
「寝乱れの髪のはらはらとかかりたるはづれより、眉の匂ひほけやかに、ほのかなる顔の面影、いろ深く見ゆるさま」で、次に逢うまでに命が永らえるとは思えないほど別れがつらい。その思いは梅若君とて同じであった。梅若君は童と二人、桂海を追って比叡山へと登るのである。
ところが、道中、天狗にかどわかされ山中の石の牢に幽閉されてしまう。梅若君が行方知れずとなったというので三井寺では騒いでいる。比叡山の律師と忍び通っていたことを誰かが告げる。父親がそれを許したのではないのかと疑って、寺門(三井寺)の衆徒は三条京極の花園大臣の邸を焼き払う。それでも憤懣収まるところを知らず、寺門派、山門派との合戦へとなだれ込む。
ここまで読んでくると、中世の僧侶というのは、仏道に精進し悟りすましているわけではまったくないということがよくわかる。僧侶たるもの、美少年への恋に身を焦がし、美少年を命がけで取り合い、ひいては美少年がために焼き討ちだの合戦だのへ乗り出すものなのである。