以前、「チャーハン」という店のことを書いた。店名を「チャーハン」に変更した中華料理屋の話である。他にも「炒飯の万博」とか「チャーミングチャーハン」という名前の店を知っているけど、前者はチャーハンの専門店で後者はすべてのメニューにチャーハンがつけられるシステムだから納得感がある。でも、「チャーハン」はチャーハンの専門店というわけではない。普通に酢豚や担々麺やエビチリや餃子もある。なのに名前は「チャーハン」。それでいいのだろうか、という私の疑問とは関係なく、店は繁盛しているようだった。
或る日、「チャーハン」の近くに「ガチガチ専門」という店ができた。どうやらマッサージ屋らしい。これにも首を捻った。普通は「○○マッサージ」的な店名がまずあって、その横に「ガチガチ専門」と補足的に記されるものじゃないか。だが、いくら探しても「○○マッサージ」に当たる名前は見つからない。ということは「ガチガチ専門」が店名なのだ。店の前には手書きの看板があって、誘い文句が記されている。内容は定期的に変わるのだが、今はこうだ。
背中が辛すぎ
電車の手すりで
ゴリゴリしている方
効かせて
楽にします。
なんだか面白い。「電車の手すりでゴリゴリしている方」の具体性や「効かせて楽にします」の断言に迫力がある。そして、店名は「ガチガチ専門」。
結局、この世はやるかやらないかなんだな、と思う。「チャーハン」や「ガチガチ専門」という店名の是非なんて、どうでもいいことなのだ。その証拠に、名前どころか奇妙な店内ルールだらけの有名店が世の中にはたくさんある。店主の世界観がどんなに偏っていても、店という小宇宙の中では問題にならない。客にとっての価値がきちんと提供されてさえいれば、その偏りまでもが、逆に名店の証であるかのように受け取られることすらある。でも、私はそういう店が怖い。一家言ある店主という存在が怖ろしい。彼らの心のルールは、明示されるまでこちらには予測できないからだ。
そんな私は自分のお店というものを持ったことがない。でも、もしも開いたら、たちまち潰れてしまう気がする。私には、やるかやらないか、という心が欠けている。「よし、『チャーハン』でいくぞ!」とか「『ガチガチ専門』だ!」という闇雲な決意ができない。「『チャーハン』だとチャーハンの専門店だと思われちゃうかな」とか「『ガチガチ専門』だと女性のお客さんが入りにくいかも」とか、どうしても考えてしまう。そういう人間は、普通はこんな感じだろう、という基準でしか行動することができない。その結果、「○○飯店」とか「○○マッサージ」とか普通っぽい名前をつけて、たちまち世間の波に呑まれてしまうと思うのだ。