兄ちゃんがいる。二つ上の、調子がいいことだけが取り柄のヘラヘラした人間である。親父は事あるごとに「あいつには芯があらへん」と、なぜか嬉しそうに言っていた。嬉しそうなのがいつも腑に落ちなかった。
小・中学はサッカーでキック&シュート、高校はバンドでロック&ロール。大学へ入ると同時にバーでバイトを始め、シェイカーを振る音が青年期の訪れを告げるファンファーレとなった。「なんか楽しそうモテそうカッコ良さそう教」信者の兄ちゃんは、お酒をエンジンにして遊びも女も好奇心の赴くままに満喫し、その後当然のようにバイト先に就職した。今は結婚して3児の父となり、私の元にはバカ甥が屈託のない笑顔でウンコの唄を歌っている動画が送られてくる。
確かに、シャーペンほどの芯すらない。どうやって立っているのかも不思議だ。こうなってくると、あれほど芯がない男を支えてそれらしく見せている背骨にも罪があるような気がしてくる。
彼の人生においてなんの区切りでもないように見えた結婚式も厳かに行われた。披露宴で司会の女性が「新郎はお酒の世界に魅了され、その道を極めることを決意し……」と紹介した時には、家族全員が吹き出した。母だか叔母だかが「ええように言うな!」とこぼしたので、また吹いた。おねえさんはお金をもらって、誰も求めていない「ないはずの芯」を律儀に拵えていた。悲しい大工さんだ。男女が愛を誓う場でトンカチは不釣り合いだと、教えてあげれば良かったが、それもあとの祭り。
そんなハッピーマンを尊敬することはもちろん一度もなかったが、いつも愉快にふわふわ生きているその姿を、眺めていて飽きることはなかった。そしてこの世の全ての弟と妹がそうであるように、年長者の吐く言葉に触れ、解釈することで、少しずつ自分の世界を増やしていった。
古い記憶がある。学校から帰った小学生の私は、家の前のホースで友達と水遊びをしている兄ちゃんを見た。二人ともこれでもかというほど笑い転げ、水しぶきとともに弾けていた。私は聞いた。
「何してるんー?」
兄ちゃんは言った。
「こいつの足くさいから洗ってんねんー!」
友達は言った。
「そやねーん!」
目眩がしそうなほどバカな会話だ。それでも、家のドアを開ける手が止まった。あ、言ったことない言葉、と思った。
足が臭い友達が欲しいわけではない。まじで要らない。何でも言い合える相手が欲しいのとも違う。でも「洗ってんねんー!」もその後の「そやねーん!」も、どんな口触りなんだろうと想像した自分がいた。私も2年経てば。いや、そんな場面は訪れないだろう。女の子が友達に対してネガティブな事を告げる時、あれほどの明るさは伴わない。さらに受け手が自虐を覚えるのはずっと先だ。当時はそんなふうに分析はできなかったが、そんなうっすらとした予感が、二人の水浴びから目を離せなくしていた。
コントで迷う事がある。医者を演じることはつまり、女医を演じることになってしまう。意味合いが大きく変わってくるのだが、女が演じるのだから当然だ。そんな当たり前を、うまく咀嚼できない。私はコントで、聴診器を使って遊びたかっただけだ。私はコントで、友達の足を洗いたいだけなのだ。
兄ちゃんはかつて付き合っていた彼女に浮気がバレて、買ったばかりのパソコンを真っ二つにされた事がある。
私「どうしたんー?」
彼女「パソコン割ったってんー!」
兄ちゃん「そやねーん!」
とはならない。
実際は、兄ちゃんが泣いて謝ったらしい。何の価値もない涙である。
次回の更新は7月25日(水)です