加納 Aマッソ

第42回「子どものころに わかりかけてたことが」

 相手は遠いところにおるのに、ここにおらんのに、なんで声が聞こえるんやろうと、私は黒い受話器を両手で持ちながら考えていた。東京に住んでいる親戚のおばさんが、電話口で「あいちゃんも大きくなったらこっちに遊びにおいでね」と言う。私は「うん、ありがとう」と返す。でも本当は、いつかわからない未来の約束よりも、今起こっているこの不思議な現象に小さな興奮を覚えていた。隣の部屋にいるオカンとオトンの話し声は聞こえないのに、顔も思い出せないおばさんの声は鮮明に飛び込んでくる。聞き慣れないイントネーションとスピード。おばさんの「大きく」は「お」にアクセントがあったし、とても早口だった。言葉を漏らさないよう受話器を耳に強く当てても、距離は全く近づかない。私は大阪にいて、東京と喋っている。私が出すのは大阪の声。電話を切るときのチンという音は、東京まで聞こえてたかどうか、知ることはできなかった。
 声を不思議に思うその感覚は、子機付きの電話になっても、携帯電話になっても抜けなかった。夜22時、私が通話口に「聞いてや〜」と言うと、友達からの「どうしたん〜」が返ってくる。高校で仲良くなった友達は、富田林市から優しい声を出した。富田林は大阪市よりも南。大阪の声と南大阪の声は、同時に笑うと混じり合って一つになることがあった。あの声は、あの瞬間どこにいたのだろうか。中間にあった松原市? それともdocomoがつくった四次元空間?
 なんにもわからないまま、正確には「なんにもわからない」を続けたまま、大人になった私は東京に住んで、月に一度、大阪の放送局からラジオをしている。東京の人にも聞いてもらうためにも、私が東京から大阪へ行かなければならない。私が携えているのはどっちの声なのか、それももう何がなんやら、皆目わからない。東京から大阪へ、新幹線が運ぶのは私の肉体なのですか声なのですか? それで結局、自分の声を全国へ届けることができるのはどういう仕組みなのですか? 電話と一緒ですか? 電波のメカニズムを調べるには最適な2時間半のはずだが、東海道線下りの私はいつも、ラジオで不特定多数に話す「聞いてや〜」のことで頭がいっぱいだ。そうやっていつもなにかしらで頭がいっぱいな私にとって、声は永遠に不思議なまま。ザ・ハイロウズの曲の歌詞「子どものころに わかりかけてたことが 大人になって わからないまま」がよぎる。確かになあ。大人になることはきっと、理解することじゃなくて、不思議であることに胸がドキドキしなくなることやなぁ。良い歌詞。久しぶりに聞いてみよ。あ〜〜〜やっぱ良いな。そうこうしてると私の中のリトルオカンが「それ聴いてる間に、電波の仕組み調べられるやろ」って言ってくる。でもその頃にはもうラジオで流す曲のことに思考は移っている。
 そして本番、私の「聞いてや〜」は大阪茶屋町から、深夜に全国各地へ飛び出していく。東北へ、九州へ、沖縄へ。東京へ大阪へ。声がどこに届いていても、私に聞こえる「どうしたん〜」は相方の声だけだ。テーブルの横に置いた液晶画面には、リスナーのコメントが文字になってひっきりなしに流れている。大丈夫、声は届いている。もちろん、どうやってかは全然わからないけど。話している間も、ブースの外にいるスタッフさんの指示がイヤホンから聞こえてくる。「先にここで曲いっちゃってください」。私はそれを引き取って、「それでは一曲お聴きください」と繋ぐ。声と声が頭の中で行き交う。どこかの誰かが、ベッドで横になりながら笑っている声を想像しながら。直前まで話していたトークの内容に沿った曲をかけながら、次のコーナーで紹介するお便りのいくつかに目を通す。その中にあった長文で深刻な内容のメールを読んで、そっと候補から外す。曲が終わり、バカ丸出しの明るいメールを紹介している間も、私は少し、さきほどのメールのことを考えている。私が声にしなかったメールを送ってきた人は、私に届いたかどうかわからないだろう。同じだ。私もわからない。なんにもわからない。ふざけた芸人のラジオに似つかわしくないメールを送ってきた理由も。そのことを声にして誰かに伝えたことがあるのかも。
 気を抜いたら笑えないような「わからない」に埋もれそうになる中で、私は何にも向き合わないで、電波の不思議にゆるくしがみついて、今日も頼りない大人を生きている。

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