加納 Aマッソ

第43回「アイコ、じゃんけんしよ?」

 連日の市民プール通いでこんがり焼けた肌の上に、袖がぽわんと丸くなったパステルカラーのTシャツを身に纏ったももちゃんは、夏休みに舞い降りた天使だった。ももちゃんのお母さんは忙しい毎日のせいで、たまにももちゃんの背中に羽根があることを忘れてしまう。集まった親戚は、私は、みんなの真ん中でアニメソングを歌って踊るももちゃんを、人生の何よりも愛おしく眺めた。ももちゃんのお母さんは、久しぶりに見えたももちゃんの羽根に、いつかの自分を重ねる。そうだった。これ、私にも生えてた。その羽根はそれぞれにとって違う色に見える。ももちゃんのお母さんには自分色に。ももちゃんの小さなお兄ちゃんには嫉妬で濁った色に。厳しいももちゃんのおばあちゃんには、脆くて頼りない色に。そして関係のない私には、驚くほどキレイな白に。
 羽根を広げたまま、目の前にやって来たももちゃんはあどけない顔を少し傾けて、右手で作ったこぶしを私のみぞおちの前に突き出した。そして甘い黒豆のように、みずみずしい目をこちらに向けてももちゃんは言った。「アイコ、じゃんけんしよ?」
 その言葉は私の体を弾いた。じゃんけんを、する。何かの手段ではなく、ただただ楽しいリズミカルな動作としての、じゃんけん。子どもに接する機会がほとんどない理屈にまみれた日々を過ごす私は、もちろん「なんで?」と言いたかった。なんでじゃんけんするん? じゃんけんの何がおもろいん? やったらどうなるん? 一回やったら「もっかい!」って言うんちゃん? でもそんな後ろ向きの思考を、バサァッという羽音がかき消した。私は一拍だけ置いて「いいよ」と返し、こぶしを突き出してじゃんけんをした。そして、勝つだか負けるだかをした。
 予想していた通り「もっかい!」と高らかにコールするももちゃんの瞳は、最初にじゃんけんを申し込んだときより何倍もキラキラしていて、私は困惑した。ちょっとちょっと。今のはウォーミングアップね、じゃないのよ。白熱してきたね、じゃないのよ。え、これけっこう続くかんじ? 天使、いえ船長、すみません、この乗りかかった船は途中で降りられないかんじですか? 
 意味で呼吸をしている船員の私は、なんとかこの乗船時間からも意味を得ようとして「じゃあ心理戦をしよう」と提案した。ももちゃんはまっすぐに私を見つめ、「しんりせんってなに?」と聞いた。じゃあお手本を見せるね、と私は横に座っていたオカンにこぶしを向けて、「オカン、なに出す?」と言った。オカンはゆっくりとした動作でこぶしを出して、「ほなグーだすわ」と言いながら、眉をわずかに動かした。二人のやり取りを見て、ももちゃんの目はより一層輝きを増した。
 「ほんまにグー出す?」「あぁ、ほんまや」「絶対?」「絶対」「じゃあ自分がグーを出しているところを想像してみて。筋肉の動きをしっかりイメージして。脳が指示を出して、右手を握って、出しているところを」「したよ」「おっけ、ほな私はパーを出して勝つからな? いいねんな?」「あぁええよ、あんたはパーを出し」「ほないくで」
 最初はグー、じゃんけんホイ。宣言した通り、オカンはグーを出して、私はパーを出した。まわりで片手間に見ていた大人たちも「うい〜」という適当な歓声でそれなりに盛り上がっていた。本当なら、どちらかが宣言とはちがうのを出して、ももちゃんに心理戦の何たるかを教えなければならなかったのだけど、私はオカンが必ずグーを出すという確証があった。
 ギャラリーを形成していた兄ちゃんに向かって、私は「な、言ったやろ?」と笑った。兄ちゃんは、「そやな。オカンはそうやんな」と笑った。私たち兄妹は、ももちゃんにいじわるな遊び方を教えることよりも、オカンが嘘をつけない性格であることを再確認できたことが嬉しかった。オカンは悔しがっているようには到底みえない表情で、口先だけで「あちゃ〜」なんて言っていた。私は、まだ背中に羽根が残っているのなら、オカンと同じ色がいいなあ、と思った。その後ももちゃんは、チョキを出すと宣言してパーを出し、その宣言を鵜呑みにした私はあえなく負けた。ももちゃんはビッグになるね。そう言って、みんなが笑った。誰かがつけたテレビに、ふいに私が映った。
 なんだか、久しぶりにいいお盆だった。