今年は厄年だったため、1月に明治神宮へ厄払いに行った。「厄なんか関係あるか」と言ってしまえる豪胆な人間にも憧れはあったが、かといって自力で無病息災ライフを歩み続ける自信も持てそうになかった。去年の暮れ、「厄払いってやっぱ行っとかなあかんのかなあ」と何気なく言った私に対して、神仏に関わることに敏感な友人が眉をひそめ、「行っておかないと周りの人間に危害が及ぶよ、ほんとに」という恐ろしい忠告をしてきた。こういった場合に「ほんとに」を使うのは逆に胡散臭さをアップさせるものだが、私は瞬時に両親の顔を浮かべてしまい、まんまと「親の健康は私の厄払いにかかっている」という思いに駆られたのだった。
私と同じ平成元年生まれの後輩2人と、境内に入る前の広場で待ち合わせをした。先に着いていた後輩が、私を見るなり「ちょっと、加納さん色多いです」と言ってきた。厄払いはできるだけフォーマルな服装で行くべきというルールを知らず、私はあろうことか持っている中で一番カラフルなアウターを着てきてしまった。
「初詣の感じちゃうんや」
「違います、神様これ見てもしかしたら減点するかもしれません」
「知らんがな、減点てほな持ち点なんぼやねん」
「知らないですよ」
そうこう言いながら鳥居をくぐると、突然空気が変わったような気がした。最寄りの原宿駅も代々木公園も今まで幾度となく利用してきたが、境内に入ったのはこの時が初めてで、「パワースポットといわれるだけあるな……」と、本殿までの静かな道をうやうやしく進んだ。
初穂料と呼ばれる厄払いにかかる金額には、数段階の価格帯があった。「どれにする? 厄がっつり払いたいよな?」と聞くと、後輩からは「一番安い5000円のにします」と返ってきた。もう1人の後輩も「そうですね、こういう時に背伸びするのは逆に良くないので」と言って、迷いなく財布を取り出している。
そう言われると、自分のほうが先輩とはいえ同じ年齢の人間が5000円を選ぶなかでひとり奮発するのも気がひけるので、私も2人にならった。儀式はコロナ禍でそもそも簡略化されており、想像していたよりもかなりサクッとしたご祈祷を受けた。帰りには「まさしく5000円相当だ」という授与物をいただき、「ほんまにこれで大丈夫なんかな」と思っていたが、2人は「いや〜これで問題ないですね!」とすっきりした顔をしている。消化不良な気持ちを抱えて「お昼食べにいこか」と2人を誘うと、「いいですね! 美味しいもの食べましょう」とその日一番の明るい声を出した。私には「安く抑えられたからそのぶんちょっと良いもの食べましょうや」に聞こえたが、厄払いをしたことによって「年始めからまずいものを食べる」という厄を回避できたのかもしれない、と無理のある解釈をして、店選びをしながら明治通りを渋谷までわいわいと歩いたのだった。
1年というのは本当にあっという間で、気がつけばもう11月であることに驚く。関東に来てからの11月といえば、新宿の花園神社で行われる酉の市だ。賑やかな屋台と、ずらりと並ぶ提灯の景色に吸い寄せられるように、毎年足が向く。今年は、厄払いに行ったのとは別の後輩3人とお参りに行った。結局なにかと神社には行きたがっている。
雨で境内の地面がぬかるむなか、靖国通り沿いの入り口で待ち合わせをすると、さっそく「熊手どうします?」という話になった。今まで購入したことはなかったが、私は厄払いでケチったことがうっすら頭に残っていて、「買おか、せっかくやし」と言った。他のみんなも乗り気で、お揃いの熊手を買おうということになった。
またこうなると値段である。「うわ、あれでかいですね!」「すげ〜」と、店の上部に飾られた「商売繁盛」と書かれた熊手を眺めながら歩いていたが、後輩の1人が「あ、これいいですね!」と手にしたのは、耳かきほどのサイズの一番小さい熊手であった。「1000円で買えるらしいです」「熊手って毎年大きくしていくのがいいんですって、だから最初は小さいの買いましょ!」「僕らにぴったりです!」
そう言われると私も「確かに見栄張ってもしょうがないか」という気になり、上着のポケットにすっぽりおさまるサイズの、鈴がついた最小熊手を購入した。
「これで毎年楽しみができましたね!」
「来年は2000円の買いましょうね!」
参拝するための列に並びながら、私たちはいかにこの判断が正しかったのかを言い合った。
「雨っていうのも逆にいいですよね、こっから良くなるしかない感じが!」などとまた例のごとく無理やりな解釈をしながら、芸人とは「逆に」使いの達人なのだと気づいた。「逆に」とは、不幸を幸せに変える一番の魔法なのかもしれない。不幸も逆に面白いし、貧乏も逆に楽しい。その気持ちを持つことができるなら、別に改まって神様にお願いしなくてもいいのではないか。
お賽銭の順番がきて、それぞれ穴のあいた小銭を手に持つ。私は「これもあんま意味ないんやろうけどな」「てかこの習慣なんやねん」モードに入り、「自分で頑張りますので逆に何もしてもらわなくて大丈夫です」と最悪のことを言おうとしたが、前にいる女の人が鳴らしたガラガラの音で我に返った。
前を向くと、本殿がこちらの心をしっかりと見据えていた。そして拝礼した瞬間、すべての迷いが消え、神にすべてをさらけ出したような気持ちになった。私はゆっくり手を合わせ、清らかな気持ちに包まれながら、自分本位の欲まみれのお願いを、逆に5〜6個した。