加納 Aマッソ

第50回「大人が、」

 以前、テレビに出ることについてどう思っているかを書いた。「どの番組に出たいですか?」と聞かれると困ってしまうという内容だ。憧れて目指していた場所ではなかったから、こちらが羨望の眼差しでテレビを見ているという前提で話をされるとどうもやりづらい、とテレビをよく知りもしないのに書いた。なにかを生み出したくて芸人になっているのだから、根底にあるその気持ちは変わらない。とはいえ、あれから二年ほど経ち、ありがたいことに番組に呼んでもらえる機会が増えた。すると、多少日頃の活動や心境にも変化がでてきた。
 若手芸人がテレビに出ていくということは、学生が学校を卒業して社会に出ていくのと変わらないと言っていい。それまでは、同じような環境や似たような目標を持った人間に囲まれ、共通言語に甘やかされ、ただ自分が手の届く範囲の、相方を含むせいぜい2〜3人に対する責任だけを持てばよかった。
 だがテレビではそうはいかない。関わる人数も見てくれる人の数も格段に多くなる。若手はなにも知らない。自分が気ままに発言した一言のせいで、誰かが誰かに頭をさげなければいけない羽目になっていることも。自分のスタンスを守るために取った行動の裏で、スタッフの労力が何倍にも増えていることも。自分の見え方ばかりを気にして、「あの発言が使われなかった」「あそこはカットしてほしかったのに」「〜をやらされた」「なんであいつばっかり」と文句ばかりを一丁前に言う行為が、いかに未熟かということに、テレビに出始めたばかりの私を含む多くの若手が気づかない。
 表に出る以上、すべての評価が自分に返ってきてしまうから、過剰な自意識はしょうがないかもしれない。しかしある人に「そろそろ『大人が、』って言うのはやめたほうがいいよ」と言われてハッとした。確かに、どんな職業に就こうが18歳を超えたら大人なはずだ。まわりの事情を汲む言動や利益を優先する行為を批判して「大人はこれだからいやだ」とひとまとめに言っても、蓋を開ければその相手が自分より年下だという恥ずかしいこともある。独立国家の寄せ集めである劇場には「ありがとうございます」や「すみませんでした」が極端に少なかったことも、私はテレビの現場を知るまで気づかなかった。

 ある番組で、後半におまんじゅうを美味しくいただくコーナーが用意されていた。けれど前半のトークを長引かせてしまい、その企画は結局やらないことになった。収録では、時間の都合で準備していたものをやれないことがざらにある。帰り際、スタジオの端にあるスタッフさんが用意してくれたおまんじゅうが目に入った。こういうことは初めてではないのに、なぜだかとても切なくなった。「台本にはないトークの流れもガンガン作れるで」というのを私がひけらかしたがったせいで、そして「ただ食べているとこ見せるのっておもろいか?」と間接的に楯突いたせいで、このおまんじゅうはここにあるのだと思った。私はおまんじゅうを買いに行ってくれた人が、「このサイズだったら食べにくいかな」とか「餡はすくないほうがいいかな」「2個食べる人もいるかな」と店先であれこれ考えてくれていたのでは思うと、急に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。向こうも仕事だというのはわかっているが、なんで演者はそういう意図を汲まなくてもいいんだろうと、家に帰っても心におまんじゅうが残った。

 少しだけ仲間入りできたような気がする今でも、テレビは特殊で不思議な場所だと思う。それでも私を社会人にしてくれたのはテレビだ。その場所で、おまんじゅうをなにも思わず食べられる日はくるのだろうか。気配はまだない。

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