2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻し、以来ニュースは戦争一色である。ヨーロッパ各国はいっせいにプーチンを非難し、ウクライナへの連帯を表明した。アメリカも日本も同じ。
むろん糾弾されるべきはプーチンである。ただ、戦争がはじまると、どんな指導者も同じことをいう。ウクライナのゼレンスキー大統領は「われわれは決して降伏せず、決して敗北しない。どんな犠牲を払おうとも海で戦い、空で戦い、国のために戦い続ける」という第二次大戦中のチャーチルの演説を引いて、経済制裁の強化と徹底抗戦を訴えた。日本国内でもロシアを非難する世論や新聞社説はなべて煽情的。「鬼畜米英」の時代が戻ってきたかのようだ。
ところで、この戦争を機に以前にもまして注目されているのが逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』である。昨年8月のアガサ・クリスティー賞大賞を受賞したデビュー作で、この1月の直木賞にもノミネート。今年の本屋大賞の候補にも挙がっており、もともと話題作だったのに加え、ロシアの侵攻で拍車がかかったらしい。
注目された最大の要因は、第二次大戦中もっとも激しい戦闘といわれる独ソ戦を舞台にし、ソ連では実際にも存在した、10代の女性狙撃兵を主人公にしたところだろう。
メディアにあふれる絶賛書評の山を横目で見ながら、直木賞候補になった時点で、私はこの本を某カルチャースクールで毎月行っている書評講座の課題図書に指定した。上がってきた受講生の書評作品はおおむね高評価だったものの、絶賛の嵐とまでは行かず、もろもろ議論して出たひとつの結論は「まー、アニメにしたらいいんじゃないですか?」。辛口といえば辛口である。
とはいえ、この小説が史実を下敷きにした異色のエンターテイメント作品であることに変わりはない。ひとまず内容を見ておこう。
狙撃手になった少女が経験した戦争を描く
物語は1942年2月の旧ソ連・イワノフスカヤ村からはじまる。主人公のセラフィマは18歳。高校を卒業し、秋にはモスクワの大学に進学することが決まっていた。
だがこの日、彼女の身に大きな異変が起きた。時は第二次大戦下。パルチザンを探して村に入ってきたドイツ軍の兵士によって、母が惨殺されたのだ。他の三十数人の村人たちも射殺され、中には性暴力を受けた女性の死体もあった。外交官になりたくてドイツ語を学んでいたセラフィマはその一部始終を目撃し、自らも死を覚悟したとき、外からの銃声が轟き、赤軍の兵士に助けられた。
ひとりの女性兵士が「戦いたいか、死にたいか」と聞いてきた。「死にたい」と答えたセラフィマに女性兵士は冷酷に告げた。〈この戦争では結局のところ、戦う者と死ぬ者しかいないのさ。お前も、お前の母も敗北者だ。我がソヴィエト連邦に、戦う意志のない敗北者は必要ない!〉。母の遺体と家が炎に包まれていく。
もう一度〈お前は戦うのか、死ぬのか!〉と女性兵士に問われたセラフィマは〈殺す!〉と答えた。〈ドイツ軍も、あんたも殺す! 敵を皆殺しにして、敵を討つ!〉。
こうして彼女は「中央女性狙撃兵訓練学校分校」の一員になった。くだんの女性兵士はイリーナ上級曹長。元狙撃兵で、この学校の訓練長である。訓練校に集められたのは、セラフィマと同年代の若い娘ばかり十数人。いずれもドイツ軍に家族を殺されたり、村を焼かれたりし、復讐心に燃えた少女たちだった。
11月、狙撃兵訓練学校での訓練を終え「第三九独立小隊」と名称を変えた彼女たちがはじめて参戦したのは、ドイツ軍に占領されたスターリングラードを奪取する作戦。12月、次に転戦した先は、ドイツ軍にずたずたにされたレニングラード。ここで掃討戦を続けているわずか四人に減った部隊の援護射撃が任務だった。こうした実戦経験を通じて、セラフィマは戦場の過酷な現実を否が応でも学んでいく。一瞬の油断による仲間の戦死。裏切りと見なされる行為をした者は士官であっても容赦なく銃殺する軍の規律。
敵と味方が複雑にからみあった戦場でセラフィマは考える。
〈自分でも理解不可能な感情が胸の内に渦巻いた。/イワノフスカヤ村にいたとき、自分は人を殺せないと、疑いもなく思っていた。それが今や殺した数を誇っている。そうであれとイリーナが、軍が、国が言う。けれどもそのように行動すればするほど、自分はかつての自分から遠ざかる。/自分を支えていた原理は今どこにあるのか。/それは、そっくりそのままソ連赤軍のものと入れ替わったのか。/自分が怪物に近づいてゆくという実感が確かにあった〉。
ナチスドイツとスターリン率いるソ連の間で戦われた独ソ戦。最後はソ連軍が勝利したものの、スターリングラードの戦いだけでも枢軸軍は72万人を失い、ソ連兵110万人、市民20万人の死者を出した。戦前60万人を数えたこの町で、生きて終戦を迎えた市民はわずか9000人。この小説をいま読む意味は、復讐に燃えて志願したはずの一兵士の目を通して、戦争がいかに破壊的な行為であるかが暴かれている点だろう。
もうひとつ、この小説が他の戦争小説と一線を画しているのは、戦場での性暴力が女性の目線で描かれていることである。
物語も終盤に近い1945年、第三九独立小隊は赤軍兵舎の食堂で、兵士たちの聞き捨てならぬ会話を聞く。〈なあ、ドイツ女は最高だったよな!〉〈お前は何人とやった?〉。
辛うじて殺意を抑えたセラフィマは、そこで自走砲隊指揮官になっていたイワノフスカヤ村の幼なじみミハイルと再会する。兵士の集団的な暴行は〈部隊の仲間意識を高めて、その体験を共有した連中の同志的結束を強めるんだよ〉と説明するも、自分は女性に暴行するくらいなら死んだほうがマシだと語ったミハイル。だが後日、セラフィマは銃のスコープごしに目撃するのである。ミハイルが赤軍兵の輪の中で女を路上に引き倒し、周囲の喝采を浴びながら馬乗りになって下卑た笑いを浮かべる姿を。
セラフィマの銃はミハイルのこめかみを打ち抜いた。
性暴力に対する胸のすくような一撃。しかし現実の女性兵士にこのような振る舞いが可能かといえば、おそらく難しいだろう。そのへんが「アニメっぽい」と見える理由かもしれない。
では、現実の女性兵士はどうだったのか。
女が語る、現実の戦争
第二次大戦中、ソ連は唯一、女性兵士を戦わせた国だった。その数ざっと100万人。そうした元女性兵士500人以上へのインタビューを行い、証言集としてまとめたのが、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』である。
『同志少女』には、セラフィマがアレクシエーヴィチの手紙を受け取るところで終わるが、この小説自体『戦争は女の顔をしていない』に触発されてできた作品というべきだろう。
〈わたしたちが戦争について知っていることは全て「男の言葉」で語られていた。わたしたちは「男の」戦争観、男の感覚にとらわれている〉とアレクシエーヴィチは書く。
凄惨な戦場の風景にまじって〈ハイヒールもワンピースも袋にしまい込まなければいけないというのがとても残念でした〉(航空隊/大尉)。〈戦争で一番恐ろしかったのは、男物のパンツをはいていることだよ。これはいやだった〉(射撃手/二等兵)といった話が語られるのが印象的だ。
前戦に送り込まれた女性兵士の任務は、狙撃兵、機関銃兵、高射砲兵、工兵、通信兵、飛行士、衛生指導員、パン焼き係、洗濯係などさまざまだった。よって証言の内容も多様だが、『同志少女』に比べれば、当然その内容は地味である。それでも自分も祖国のために戦いたかったと語る女性が多いことに、あらためて驚かされる。同列には語れないとしても、戦時下日本の「軍国少女」たちも、志願兵を募ったら、存外多くの応募があったのではないか。
少女と戦争のかかわりの観点から、最後にもう一冊、出色のノンフィクションを紹介しておきたい。平井美帆『ソ連兵へ差し出された娘たち』。敗戦直後、満州から引き揚げる途中だったある開拓団(岐阜県黒川村から入植した黒川開拓団)で起きた性暴力事件を、当事者の証言をもとに描き出した本である。
この事件は『同志少女』のミハイルがやったようなわかりやすい性暴力ではない。そもそもの発端は、敗戦で満州が崩壊した後、暴徒化した現地住民の略奪と、ソ連兵による手当たり次第の「女漁り」に彼らが悩んでいたことだった。この状況をどう乗り切るか。団幹部らは謀議の上でひとつの決断に達する。
〈ソ連軍に助けを求めるしかない〉。〈娘を出せば、ソ連軍司令官に守ってもらえるのではないか〉。
10代半ばから20歳そこそこの娘たちが集められ、事実上の命令が下される。〈身体を張って、犠牲になってほしい〉。
彼女たちに拒否するという選択肢はない。これが「接待」のはじまりだった。18歳以上の未婚の娘15人ほどが差し出され、18歳に満たない少女たちは事後の「洗浄」をさせられた。開拓団の未婚の女性のために設置された「女塾」の教師は、かねて〈女は戦争の前にはそれがあるから、それを覚悟していけ!〉と語っていたという。別の意味での戦闘要員というべきかもしれない。
『同志少女』の結末近くで看護師のターニャはいう。セラフィマ同様親を殺され「戦うのか、死ぬのか」と問われた彼女は「どっちも嫌だ」と答えた。〈もし本当に、本当の本当にみんながあたしみたいな考え方だったらさ、戦争は起きなかったんだ〉。だから自分は〈たとえヒトラーであっても治療する〉と。ターニャの思想は浸透せず。今日の世界はみなセラフィマのようである。
【この記事で紹介された本】
『同志少女よ、敵を撃て』
逢坂冬馬、早川書房、2021年、2090円(税込)
〈百万人近くもの女性が従軍したソ連の女性史への哀惜の念と深い洞察に支えられた感動の書〉(沼野恭子氏「推薦のことば」より)。天才的な射撃の腕の持ち主シャルロッタ、狩猟の経験豊富なカザフ人のアヤ、ママの愛称で呼ばれる年長のヤーナ、ウクライナから来たコサックのオリガら、セラフィマと同じ狙撃訓練校の生徒たちとの友情も読みどころ。シスターフッド物としても歓迎された。
『戦争は女の顔をしていない』
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/三浦みどり訳、岩波現代文庫、2016年、1540円(税込)
〈彼女の仕事の反対側には「国家」がある。(略)戦闘にくわわり、戦後は戦争体験を完全黙秘しなければならなかった女たち〉(澤地久枝氏の「解説」より)。戦後(1948年)ウクライナで生まれたジャーナリストによる、第二次大戦下に従軍したソ連軍女性の聞き書きを集めた証言集。原著は1984年刊。2015年に著者がノーベル文学賞を受賞したことで、注目を浴びた。
『ソ連兵へ差し出された娘たち』
平井美帆、集英社、2022年、1980円(税込)
〈敗戦直後の満州で起こった悲劇の全貌とは? 歴史に埋もれた真実を掘り起こす、衝撃作!〉(帯より)。引き揚げ途中の開拓団(129家族・600余人)を略奪や強姦から守るため、団幹部の手でソ連軍将校の「接待」に供された10代〜20代の女性たち。彼女たちが戦後をどう生きたかも含めた証言を丹念に集めた労作。2021年の開高健ノンフィクション賞受賞作。