昨日、なに読んだ?

File95.創作の熱に孤独な密室で浮かされる本
松尾潔『永遠の仮眠』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは「月と怪物」が “ソ連百合” として大きな反響を集め、今年7月に第一長編『蝶と帝国』を発表した新進気鋭の小説家、南木義隆さんです。

 僕は主人公が様々な想念を抱えつつ孤独に真夜中にMacBookを操作し、出来上がった複数のトラックをそれぞれスピーカーから小さな音で流して聴く(大きな音で音楽を聴くと実際以上によく聴こえるものだ、と主人公は語る)場面や、胃を壊してから作業中のコーヒーは控えるようになったがカフェインのために飲んでしまうといった場面に、有り体に言うと共感を覚えた。僕が最初の長編小説執筆で呻吟していた時と、とてもよく似ていたからだ。
 ある章を複数のパターンで執筆し、書籍となる時と同じ字組で印刷して読んだ。眠気覚ましのコーヒーとエナジードリンクで胃はめちゃくちゃになった。最終的に、先日去年から今年に入っての無理がたたって急性胃腸炎で救急搬送され、白血球の数値が異常だと指摘された。『永遠の仮眠』の主人公と同じように、今は執筆中のコーヒーは控えている。
 主人公は明示的に社会的、金銭的成功者として描写されていて、MacBookを使っていること以外に僕と目に見えた共通点はないだろうが(それにしたって僕は他人からせがんで譲り受けた結構古いものなのだけれど……)、それでも、である。
 同時に主人公が密室で、一人きりでいながらゴージャスな世界をイメージし、「メロウ」なものを作り上げるという志向性が僕にとっては重要な意味を持つ。
 ジャズの帝王、ブラックミュージックの神の一人であるマイルス・デイヴィスは「自分のライブでマイ・ファニー・バレンタインを聴いた恋人たちが一人でも多くその夜にベッドに入ってくれるとうれしい」というような言葉を残しているが、『永遠の仮眠』の主人公の創作理念もまた本質的にはそのような夜のための音楽にまつわる哲学に則っている。どれほど自分自身が密室に閉じ込められていようとも。
 だからこそ、リズム&ブルースという官能極まりない音楽を巡りながら、創作の現場に閉じこもるあまりに禁欲的となるこの小説のなかで最もセックスの気配が立ち現れるのは、ひと時仕事のことを忘れビルボード東京でミネアポリスのメロウなジャズバンドに聞き入った後に、まるで修行僧が還俗するような決壊のごとく最もあってはならない相手との、極めて背信に近い不倫に至る寸前の場面となるのだ。ある種の優れた音楽はしばしばセックスに奉仕する。あるいはセックスが音楽に奉仕する。

 彼はその哲学を、欲望を、自分の創作においては楽器を持ち寄った熱気溢れるセッションやライブの瞬間ではなく、孤独なスタジオで発生させようとしている。自分の頭のなかにだけあるささやかな想念が、創作物としてリリースされたときには絢爛たるものとなって受け手に伝わることをイメージしている。
 最初、「僕もまたマイルスが提唱した同じ哲学の下に小説を書いているから、そう思うのだろうか?」と推測した。僕は小説を書くとき、自分の小説を読み終えた読者が性別年齢如何を問わず、なるべくすぐに恋人とセックスしたくなるような物語を、と思いながら書いている。必ず何らかの性描写が入るのもそれに所以する。
(ちょうど先週の打ち合わせで、第一長編の担当編集者から「高校生らしき読者が、本を気に入って図書室にリクエストしたものの、これを学校図書に入れて大丈夫なのかな……と心配していました」と聞かされた。今後はそうでないものも書いていきたいところなのだが……)
 とまれ、「音楽を演奏するように文章を書く」と語る小説家は多い。僕の小説の師である津原泰水もそのようなことを語っていた。的確なリズム、感情のトーンを司るハーモニー、何かを訴えかけるメロディ。それらすべての化学反応を、まずは自分の体内でだけ起こす必要がある。出力される先はキーのタイピング(あるいは筆)のみ。村上春樹は「小説を書いている人間にとっては、キッチンのテーブルでもみかん箱の上であろうとそこが孤独な書斎となる」というようなことを言っている。
 僕はプライベートスタジオで作業に没頭する『永遠の仮眠』の主人公が、あまりに物語を紡ぐように……小説を書くように音楽を作っているのではないか? とそんな仮説に思い当たった。孤独な密室で自らのあらゆる欲望を抑圧しつつ構築した「世界」を、楽曲という「作品」の形で提示し、その「世界」に分け入った受け手の欲望を解放させる……。メロウな夜を愛する人間が、それを禁じてまで他者を引きずり込みたいのはそんな「作品」ではあるまいか。
 主人公がプライベートスタジオで手取り足取り指導しながら手がけるシンガーは、彼が稠密に作り上げた世界を堂々と行く「アクト」、あるいは、「キャラクター」のようだ。だから実際の歌唱シーンよりも、主人公がトラックを練り上げ、作り直し、仮歌を執拗に聴き直すシーンが印象的に反復されるのだ。楽曲がひたすら没とリテイクを重ねられ続けることも、その印象をより強める。
 シンガーそのものを描くことよりも、シンガーという名の「キャラクター」が自分の「作品」=「世界」でどのような「役割」=「物語」を演じるのかということへの絶え間のない彫琢、書き直しにこそ作品の核があるように僕には読めた。
 あるいはそれは、小説家としての松尾潔が「音楽を作ること」を「小説にする」にあたって行なった一つの「落とし込み」の作業の周到な結果なのかもしれない。いずれにせよ、音楽家にこれほど「小説」なるものの在り方が激しく求められたことが、過去あっただろうか。僕は寡聞にして知らない。

 作者が身分を明かしていない小説ならともかく、本作は明示的に作者と主人公を重ね合わせ、ここは事実の脚色? ここは完全な虚構? ここは……と読ませるようなスタイルだから、このような読みをすることが必ずしも僕の発想の飛躍ではないと思いたい。
 シンガーを描いた映画は必ず素晴らしい歌声が響く、うっとりするような場面がある。小説には決してあり得ない。しかし、まるで真夜中の書斎の小説家のように苦悩する音楽家を書いた小説は存在する。
「いや、それは創作者全般に言える苦悩だろう」と指摘することもできるだろう。だが小説とは原則的に一人の人間が一から十まで制御する表現様式である以上、「どのように書かれたか」には大いなる意味がある。そして『永遠の仮眠』は音楽ライターという「書き手」から出発してプロデューサーとなった松尾潔が、著者に限りなくよく似た音楽ライターとしての経歴を持つ男をあえて主人公に据えて書かれた小説である。
 あらゆる小説家がポピュラーミュージックに思慕し、架空のスターシンガーを創作し、白熱のライブについて小説で描写してきただろう。けれども、現在ポピュラーミュージックを題材とした小説を書こうとしている僕にとっては、文章の書き手から音楽家になった男がビジネスと感性の板挟みで決着のつかないまま、真夜中の孤独な密室で練り上げた自身の「作品」=「世界」の呻吟に喘ぐ描写こそ、示唆的なレファレンスとして機能している。

 評者にとって書き手・松尾潔との出会いはディアンジェロのライナーノーツだが、それらを収録したメロウ二部作の二作目『メロウな季節』の帯には菊地成孔による序文から「この本は松尾さんが手がけるどの音楽よりクインシーの音楽に近い」という言葉が掲げられている。それになぞらえて『永遠の仮眠』について、その密室でのみ自分のはらわたを曝け出す様において「この小説は松尾さんが手がけるどの音楽よりもディアンジェロに近い」と言い添えて終わりたいと思う。

 

次回は12月28日更新予定です。

関連書籍

松尾 潔

永遠の仮眠

新潮社

¥1,505

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入

南木 義隆

蝶と帝国

河出書房新社

¥1,980

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入