小説はたびたび音楽に恋をするが、ほとんどの場合は片思いに終わる。なかでもポピュラーミュージックへの恋慕は、日々それらの音楽を愛聴しつつ小説を書いている評者から見てときに涙を禁じ得ないほど切ないものがある。
生誕が二十世紀半ばというポピュラーミュージックが、同時代に成熟を重ねていった十九世紀後半生まれで少し年嵩の映画と完全に愛し合っているのを横目にすれば、嫉妬の念すら覚えてしまう。僕がジョン・カーニー監督『ONCE ダブリンの街角で』を観たのは十七歳くらいのころで、すでに小説家になることを夢見ていた。名もなきストリートミュージシャンの男と、チェコ移民の花売りの女が互いのこれまでの人生を語りながら歩く途中(二人に劇中で名前は冠されず役名はguyとgirl)、楽器屋へ寄り道してギターとピアノのデュオで男の作った曲「フォーリング・スローリー」を歌うシーンを前に、まだなにも書き始めていないのに関わらず、自分がこれからしようとしていることにやるせなさを感じたと十四年越しで白状しなければならない。
当時、僕はすでに学校をドロップアウトしていたが、まるで片思いしているクラスメイトがクールな先輩と付き合っていたら、なんて安っぽい妄想にまで浸ってしまいそうだった。なにしろその映像ときたら、ハリウッド的大ビッグバジェットでもなんでもなく、ハンディカメラで撮られていたのだから。そして本作のヒットに加えて「フォーリング・スローリー」でバッチリとアカデミー賞歌曲賞まで抑えたカーニーは続く『はじまりのうた』『シング・ストリート 未来へのうた』で名実ともに音楽映画の頂点を極めていく。
評者の思春期的経験からたまたま『ONCE ダブリンの街角で』を引いたけれど、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』やら『ハッスル・フロウ』、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』ないしは『ボディガード』だっていいし、最近だと『コーダ あいのうた』まで「架空のシンガーを扱った名作音楽映画」は多様な作風で枚挙に暇がない。
ここに挙げたいずれもの作品も「シンガーが役者となる」という強みを生かした作劇が行われている。あるいは「役者がシンガーとなる」。説明するまでもなく、優れた歌声は絶対的で、融通無碍だ。それが単なるテレビ画面ではなく劇場で響くことを想定したならば尚更。そしてもちろん文章に音楽は鳴らない。
ただ実在のシンガーを扱った伝記、ないしは伝記的フィクションにおいては「文章が映画に絶対的に敗北している」とは思わない。
「小説」という縛りではなく「ポピュラーミュージックと文章」という領域に話を広げるならば、とりわけ音楽雑誌はレコードと並ぶ大量消費時代の申し子としてインタビュー、ライブのレポート、レコードのレビューという様式によって互いの歴史を語る上で不可分なほど手を取り合ってきた。例えば『ローリング・ストーン』誌のように。映画のように無条件ではないものの、時に(あるいはしばしば)互いに激しく憎み合うからこそ生まれてきた愛憎のパトスとカオスによって練り上げられたルポタージュが幾つかは存在する。
近年出版されたなかで目を引いたジャレット・コベックによるXXXTentacionの評伝『ぜんぶ間違ってやれ』(浅倉卓弥訳)は、生前のXXXTentacionのTwitterアカウントによる万にも及ぶ投稿をサルベージして検討するというSNS社会ならではのアプローチが強烈だった。本人による自己言及的な短文と、ジャーナリズムの情報を鎖のように繋ぎ合わせ、十年代を代表する不世出のラッパーがいかに暴力的で、差別的で、同時にやるせないまでに自傷的であったか迫りつつ、GAFAが支配する白人優位の資本主義社会の普遍的な犠牲者について看破していた。
またQUEEN、あるいはフレディ・マーキュリーを描いた『ボヘミアン・ラプソディ』の世界的大ヒットは記憶に新しいが、私見ではあまりに素直な青春映画として収まりのよい本作より、映画の脚本家が執筆に際するコンサルタントとして雇った音楽ジャーナリストであるレスリー・アン・ジョーンズの手による伝記『フレディ・マーキュリー〜孤独な道化〜』(岩木貴子訳)の方が、フレディというミュージシャンの両輪のように存在した情緒的感性と俗っぽさのギリギリの調和について深く切り込んだ興味深い作品のように思う。
フレディが現実にほとんど臆面もなく行った「乱交」について、映画においては一面的な退廃と悪徳として描かれたが、伝記ではある芸術家の奇抜ながら必然性のある性的欲望として相対的に書かれている点などが顕著だ。
もちろんそこには想定される受け手(観衆)の母数や傾向の差があるが、「現実の出来事」へのアプローチに関しては、ジャーナリズムによって蓄積された文章という表現様式にはまだ一日の長がある。
なにより実際の優れた歌声が存在し、文章によって音楽を流さずともそれが豊かに耳に響くなら、あるいは文章によってその歌声を実際に聴きたくなったなら、それは一つの達成ではないだろうか。