絶叫委員会

【第126回】世界が比喩になってゆく

PR誌「ちくま」4月号より穂村弘さんの連載を掲載します。

 四半世紀ほど前のこと。新しい新幹線の名前が「のぞみ」に決まったと知った時、なるほどなあ、と思った。新幹線といえばスピード。でも、ネーミング的には、もう「ひかり」まで使ってしまった。これ以上速いものは存在しない。いったいどうするんだろう、と心配していたのだ。でも、その手があったか。確かに人間の思念より速いものはない。宇宙の果てだって一瞬で想像できてしまう。
 新幹線以前の特急の名前は、例えば「つばめ」とかだった。最高時速200キロとも云われる鳥のスピードに肖っているのだろう。「つばめ」は実体のある生き物だ。ピイピイ囀って餌を食べて糞もする。それに比べると「こだま」や「ひかり」は実体感が薄い。生き物じゃないし、手で触ったりもできない。とはいえ、音や光は一応体感することができる。だが、「のぞみ」はさらに進んでいる。もはや実体はどこかへ溶けてしまった。
 話は新幹線に限らない。時代が下るにつれて、ネーミングセンスというか、その背後にある我々の感受性が、どんどん実体から遠ざかってゆく、という現象があるんじゃないか。
 例えば、昭和の電波塔といえば「東京タワー」。この名称はわかりやすい。「東京」の「タワー」という意味だから実体そのものだ。一方、今世紀になって出現した「スカイツリー」はどうか。「スカイ」の「ツリー」ってことは空の樹。神話や童話の中の存在めいている。つまり、このネーミングは全体として比喩なのだ。
 大昔のコカ・コーラの宣伝文句が「飲みましょう」だった、という話をどこかで読んだことがある。当時のユーザーはそんなに素朴だったのかと驚いた。メッセージがあまりにもそのまんまじゃないか。その後、コカ・コーラのキャッチコピーは「スカッとさわやかコカ・コーラ」「さわやかになるひととき。」「ココロが求めてる」など、よくわからないけどとにかく爽やかという方向に進化していった。味のおいしさから気分の良さへ、実体からイメージへと価値の転換が図られている。
 実体に対してイメージの力が増してゆくのは、ネーミングやキャッチコピーなどの言葉に限らない。例えば、昭和ひと桁生まれの私の父は洋服を完全に実体として捉えている。すなわち洋服イコール防寒具なのだ。でも、或る年齢以下になると、そういう人はほとんどいないだろう。多少なりとも、お洒落という概念が入ってくる。防寒という用途の明確さに対して、お洒落は捉えどころがない。
 社会的には、この捉えどころのなさこそがポイントなのだろう。実体をイメージに変換することで、人の心に働きかける強度が増すのだ。防寒具は数着あれば充分だが、お洒落のための服には充分という枠がない。このズレは戦後生まれの我々が実感としてよく知っていることだ。イメージ化によって欲望を無限に肥大させること。お金の動きをベースとした社会にとってはこの点が重要で、その結果、ほとんどの実体は溶けてゆく。最後に残る実体とは死。これだけはまだ避けられない。我々はその直前までイメージや比喩の夢の中にいるのだろう。

 ひかりからのぞみへそしてタワーからツリーへ世界は比喩に変わった
                            (ほむら・ひろし 歌人)