絶叫委員会

【第124回】私が前にいた世界では

PR誌「ちくま」2月号より穂村弘さんの連載を掲載します。

 パラレルワールドという言葉を初めて聞いたのはいつだったろう。その概念を知ったせいで、自分の世界像が揺らぐようなものごとに出会った時、あれ? もしかして今、別のパラレルワールドに移動したのかな、と思うようになってしまった。以前なら、変だなあ、でも、まあ、そういうこともあるのかも、とスルーしていたのに。
 例えば、Tシャツの上にブラジャーをつけている女性を見た時、驚きながら、私が前にいた世界では順番が逆だったのに、と思うような感じだ。ただし、この場合のパラレルワールド感はそんなに強いものではない。自分がファッションに疎いという自覚があるため、そうはいってもこれは奇抜な流行なんだろう、という現実的な思考がまだ残っているからだ。
 それに対して、意外な言葉に出会ったケースでは、別の世界に移動した感覚をより強く持つことになる。たぶん、それが世界像の鍵になる要素だからなのだろう。
 数年前のこと。車を運転している時、次のような言葉が目に入った。
「スピードが優しい貴方を鬼にする」
 えっ、と思う。こんな標語初めて見た。私が前にいた世界にはなかったと思うなあ。そこにあったのは「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」とか「注意一秒ケガ一生」とかである。「スピードが優しい貴方を鬼にする」という発想の特異性に加えて、車に乗っている時に一瞬だけ目に飛び込んできたというシチュエーションも、別世界感を強めたのだろう。でも、あれ以来、この言葉を一度も目にしてない。世界は元に戻った。もしや、一瞬だけ次元の狭間に紛れ込んだのか。だとしたら、向こう側の世界の標語を垣間見ることができて幸運だった。
 やはり数年前のことだが、インターネットのニュースでこんな見出しを見たこともある。
「0歳児に有罪判決」
 目を疑った。私が前にいた世界では、そんなことはあり得なかったはずだ。だって0歳児なんて、ほとんどなんにもわからないだろう。その赤ちゃんがいったい何をしたのか知らないけど、ずいぶん厳しい世界に来ちゃったなあ。
 いちばん最近、え! パラレルワールドに来た? と思ったのは、新幹線の中でこんな電光ニュースを見た時だ。
「天皇陛下免許更新」
 びっくりした。私が前にいた世界では陛下が免許を所持されているって話は聞いたことがなかった。しかも更新って……、じゃあ、この世界ではご自分でハンドルを握ってドライブを? 凄いなあ。信号待ちで隣に並んだら驚くよ。
                            (ほむら・ひろし 歌人)

 

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