この秋、初めてポルトガル文学の「文芸翻訳ワークショップ」の講師を務めることになった。そんなニッチなワークショップに参加者がいるだろうかという懸念は杞憂に終わり、ありがたくも定員枠は瞬く間に埋まった。
参加者は、技術翻訳者、駐在経験者、ポルトガル語講師等々、多彩な顔ぶれだ。これは生半可なことはできないぞと、きゅっと背筋が伸びた。
課題にする短篇を探していたところ、1冊の薄い本が目に入った。遥か昔、留学中に購入したのだが、数ページを読んだだけで「地味!」という雑な感想とともに放っておいた本である。その薄さゆえ、邪魔にもされず、しかし思い出されることもなく、数回の転居をものともせず、私の手元に残り続けたのだ。
「ああ、そういえばこれも短篇集だった……」と、適当に開いて読み始めたところ、最初の数行を読んで衝撃を受けた。
「眠れぬ長い夜、レアンドロは、扉を細く開け、抗いもせずに亡霊たちを迎え入れたものだった。訝る言葉もないのは、それが小さな呟きであっても、この会合の邪魔をしたり、台なしにしたりしかねないからだ」*
なんと寂しく美しい文章だろう。一気に1篇読み、そのままほかの短篇も次々に読んでしまった。
すばらしい短篇集だった。積読ばんざい。ばんばんざいだ。
この作家の味を理解しなかった20歳くらいの自分を、「ばーかばーか!」となじりながらも、処分はしなかったことを心の内で盛大に褒めたたえていた。
作家の名はマリア・ジュディッテ・デ・カルヴァーリョ(Maria Judite de Carvalho)。20世紀のポルトガル文学を代表する作家の一人と知ってはいたが、現在はそれほど耳にする名ではない。検索してみると、ちょうど今年が生誕100年。1998年に死去して以来、実のところほとんど忘れられた存在だったらしい。それが、3年前にポルトガルで全集が発行されたことから新たな読者をぐんぐん増やしているという。さらには、初めての英訳が出たばかりというではないか! 書評サイトを見ると、「こんな作家が忘れられていたなんて!」という驚きの言葉が並んでいる。つまり、埋もれた宝を見つけた気持ちになっていたのは、遠い日本にいる私だけではなかったみたい。英訳本、Empty Wardrobes(Two Lines Press, 2021)にはケイト・ザンブレノが長い前書きを寄せている。早速、原作Os Armários Vazios(初版1966)**を取り寄せて読んでみた。
若くして夫と死別した女が、必死に娘を育てて一息ついたころ、亡夫のある秘密を知ったことをきっかけに大きな変貌を遂げる。そんな彼女に友人の恋人が近づいてくるが……。加齢を拒絶する亡夫の母、主人公、青春を謳歌する娘の3世代の女たちに比べ、登場する男たちの存在感は希薄で軽い。けれども、そんな男たちのために彼女たちの人生はあっけなく方向転換をさせられる。本作を英訳したマーガレット・ジュル・コスタは、サラマーゴやペソーアの作品の訳者として知られるポ英文芸翻訳の第一人者。さすがの選択眼、と唸った。
その死後、世紀をまたいで20年以上経った今、多くの読者が「こんな作家がいたのか」と驚きで目を見張り、作品を読んで胸を詰まらせている。先日は、作家についての講演がオンラインでリスボンからライブ配信されるというので、夜中の2時に起き出して聞いた。参加者の大半はポルトガルからだが、中にはインドから、ブラジルから、という人もいた(東京からの参加者がいたことも喜ばれた)。
私にとっては、まだ出会ったばかりの作家である。多くを語ることはできないが、この興奮状態にあるときに、「昨日、なに読んだ?」の執筆依頼を受けたのも何かの縁だろう。いつか、マリア・ジュディッテ・デ・カルヴァーリョの作品を日本に紹介できる日が来ることを願い、念を込めてこの文章を書いている。
*”Leandro”(短篇集 Além do Quadro〔O Jornal, 1983〕に収録)より
**私が読んだのは全集Obras Completas de Maria Judite de Carvalho 2 (Minotaur
o, 2018)所収のもの