「『異邦人』が愛読書の人間は信用できる」
「分かります」
友人に同調しておきながら、本当に分かっているのだろうか私は、とも思っていた。
本作は二部構成の形式が取られている。第一部は主人公ムルソーの母が逝去したという知らせから始まり、その後の日常生活が描写される。
ムルソーは独自の思考に基づいて生きており、他者とはその心中を共有することがほとんどない。にもかかわらず、彼は周囲によく「分かられて」いる。人々はムルソーの心境を勝手に推測して判断を下し、素直に話せないのだとしてもあなたの気持ちは十分に理解している、と親愛の情を示す。理解と共感の表明によって人々はつながろうとする。
第一部の終盤でムルソーが不意にアラビア人を殺害したことで、第二部では裁判が開かれる。
ムルソーは母親の葬式で泣かなかった、母親の年齢を知らなかった、葬式の翌日に海水浴に行き女との情事にふけった――そうした第一部で語られた紛れもない事実、しかしアラビア人の殺害とは何ら関係のない事実を論拠として、検事は彼を糾弾する。ムルソーにとっては、母親を愛する気持ちと母親の葬式で泣くという行為が結びつかないだけなのだが、他者には理解も共感もできない思考回路が故に、悪逆非道な人物かのような判定を受けてしまう。予審判事も弁護士も検事も、外側から認識できる事象のみを用いてムルソーを解体し、内実を理解したと思い込む。やがて、死刑判決が下ったムルソーの元に司祭が訪れ、最後の問答が始まる。
私は、母親はおろか、自らの年齢すら分からない。私の年齢を把握したいと望むのはいつも他者であって、私にその情報は必要ないから、わざわざ覚えていない。あの検事いわく、まともな人間なら母親の年齢を知っていて当然らしいから、こうした私もまた、ムルソー同様に〈魂と言うものは一かけらもない、人間らしいものは何一つない〉生物なのかもしれない。
かつて、私の尊敬していた人は、ムルソーは母親を亡くした悲しみで心が盲いているのだから、彼に必要なのは法の裁きではなく適切な治療だと仰った。“人間らしい”人からすると、人間にはかくあるべき状態が規定されているようで、ムルソーのように“非人間的”な言動をとることは人として異常なため、正しい状態になるまで治療してあげなくてはならないようだった。
もしも私が人間ではないことが誰かに気付かれてしまって、みんなと同じくまともな人間の状態に戻ろうねえと力強い優しさでもって矯正されるのと、みんなと違っていて気味が悪いから死んでほしいと言われるのだったら、後者のほうがまだマシな気がしている。
紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちがおススメ書籍をそっと教えてくれるリレー書評。今回ご登場いただくのは、全選考委員が推した「N/A」で第127回文學界新人賞を受賞し、鮮烈なデビューを飾った年森瑛さんです。