とにかくなにもやりたくない気分のとき、ぼうっとタブレットでSNSを眺めていたら、『ひょうすべの国 植民人喰い条約』(河出書房新社)の一部を引用した笙野頼子botが流れてきて、そのままぼうっと電子書籍をダウンロードして、そのまま読んだのだった。
私はよくSNSで「戦っている」なんて言われたりして、本来戦うなんてしたくない小心者の自分がどうしてこんなことになったかといえば、とにかく、他人に向かって、同意、批判、反論、オール“コテハン“でやりたい放題のSNSの仕様に自分の脳ミソがぴったし嵌ってしまったからで、十数年のインターネット遍歴の中で、一番活発に他人様にあれこれ自由に言っているのは実名アカウントの現在であるという恐ろしいことになってしまっている。
とにかく私が笙野頼子を知って、読んだきっかけは今私が嵌っているインターネットの流れの中であった、ということだ。そしてその流れのまま読んでしまえる言葉の連なりに身を委ねてみれば、ああ、やはり、紙の本こそ(いや私は紙では読んではない)、訂正、文学ってやっぱ過激な芸術であるなあと思いつつ、するりするりと読んでいったのである。
するりするりと描かれているのは、日本が「にっほん」となったディストピアで、私はするりするりと入っていってしまって……。
正直TPPのことはよくわからないので、よくわからないなあという説明しかできないのだけれど、「にっほん」の少年少女たちの受難に関してはとてもよく理解できたのだった。特に、どうしても私は少女として日本で生きてきたので、日本の現実を誇張すれば「にっほん」になることがよーく分かる。自分の身体が資源であって、聖少女であったり青い果実であったりいろいろな貴重な価値ある資源であると、血走った目の大人たちは教えてくれたので、さもありなんと思ったのであった。欲望を隠したふりの大人たちに怖気立つようなすりすりをされながら憎しみを募らせていたのだった。そのような少女であったから、本書の「表現の自由」や「性的自己決定権」が認められた「にっほんの少女さん」の様子が、突拍子もない絵空事だとも思えなかった。
これはどうやらシリーズ物の前日談らしいぞ、と知って、そのまま『だいにっほん、おんたこめいわく史』(講談社)を読んだ。これはおんたこシリーズの一作目だという。おんたこって、なんだよ。でも、おんたこなるものが私の嫌いなものであることは明確であった。笙野頼子はめちゃくちゃ怒っていて、たぶん私も似たようなものにめちゃくちゃ怒っているのだろうと理解した。私は日和見主義の小心者なので、普段怒ることは滅多に無いのだけれど、まあそれは嘘だけれど、私のエネルギーが足りない分は、少々笙野頼子の描いた怒りに都合よく相乗りさせてもらおうかなあとか思って、でもよく勘違いされるのは、女という置物が同一思念体ではない、という事実で、同一思念体ではないので、別に百パーセント同意とかではなく、でも、なんか分断されるのも癪だけれど、でも、同一思念体だと思われがちなこともあるから、それは違うってあらかじめ言っておきたい。それで、小説内小説「笙野頼子の一生」において、笙野頼子がブスという扱いで迫害されてきたことについて、少々記述してあるのだが、このブスであるという構造の話について、私は非常に納得したのだった。というのも、私はまさに同じ構造の中の逆側にいたのだから。小さい頃からすりすりしたがる大人たちが群がり性的価値がありますよ、いいや貴女はそれがメインなのですよ、と特定の個人ではないけれども、まあたぶん誰か何者かにそう思わされてきていて、まあでもすくなくとも黙ってニコニコしていれば最高なのであった、胸も大きくなって更に最高なのであった……ニコニコ、ニコニコ、少々胸を揺らすとニコニコ、その特権によって私はまあ遮られずに多少何かを話すことができて、私には媚びるくせにその目の前で平気で他の女を迫害する男たちに容姿棒を使って憎しみをぶつけることに成功してきたのだが、若さが失われていくので棒の攻撃力は弱まっていくだろうなあと毎日のように思わされてきて、ブス、というよりばばーかしら、ばばー、うるさいなあ、ですって? まだいけるかなあ、ニコッと鏡に笑いかけて、ほら。
そういうわけで、すごく気持ち悪い描写ばかり続くこともあって、あと読みやすいけど難解だし疲れてしまって一気読みした後にぐうすかと寝てしまったのだけれど、夢の中でも私は気持ち悪いものを見てしまって、起きてすぐ、「殺そう」と思った。なにを?
本来、私の一番近くにあったはずの作品は、SF色の強い『水晶内制度』(新潮社)だったはずだけれど、にっほん内に誕生した女人国ウラミズモの話なのだけれど、頭がゆでダコになってしまったのとこわいのとでまだ読んでいないのでこれは「昨日、なに読んだ?」ではなくて「明日、なに読む?」である。