丸屋九兵衛

第21回:『ジョーカー』『Us』が描く下克上。オメラスの地下でBTSが反乱を起こしたら

オタク的カテゴリーから学術的分野までカバーする才人にして怪人・丸屋九兵衛が、日々流れる世界中のニュースから注目トピックを取り上げ、独自の切り口で解説。人種問題から宗教、音楽、歴史学までジャンルの境界をなぎ倒し、多様化する世界を読むための補助線を引くのだ。

 何度も見返したいとは思わない。
 でも本当に素晴らしい。

 この10月4日に公開された映画『ジョーカー』のことだ。
 素直なスーパーヒーローの素直な映画を素直に楽しむわけがないわたしに、とても響く作品である。かつて称賛されたダークナイト3部作の「リアリズム」が遠い風景に思えるほど。

 そこで!
 今回はその『ジョーカー』をヒントに、現実世界の格差と不均衡について考えたい。前々回の「Amazonプライム『ザ・ボーイズ』。話題のドラマに学ぶ、現実というディストピア」同様に、内容に言及する部分多数なので、ご注意を。
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「何度も見返したいとは決して思わない」と書いたのは、あまりに痛いからだ。

 映画の舞台は1981年。だからそこには、レーガノミクスによる弱者切り捨てで苦しんでいた頃のアメリカがある。そこがニューヨークではなくゴッサムであることも忘れるほどに。
 現実世界では……レーガン政権によって予算が圧縮される中で、しわ寄せを喰ったのが音楽教育だ。こうして、ゲットーの子供たちが楽器に親しめる場だった音楽の授業が奪われ、「基本的に演奏者を必要としない音楽」であるヒップホップが否応なしに開花していくことになった、ともいう。

『ジョーカー』の世界では……心身に障害を持つ人々へのケアも切り捨てられた。神経疾患を持つ男性アーサー・フレックも、市のカウンセラーによるサポートを失うことになる。
 そんなアーサー・フレックを演じるのは、そろそろ(額から下を比べれば)マーク・ストロングと区別がつきにくくなってきたホアキン・フェニックス。この役のために、彼はかなり減量したのだろう。老いた母に「もっと食べなさい」と諭される場面に説得力を与える細さ。身長に対する体積の比率は、ジャック・ニコルソン版の半分ほどではなかろうか
 他にもさまざまな偶然も重なり、そのアーサー・フレックが「ジョーカー」となるまでのいきさつ。それは、とても辛くて痛い。その痛さゆえに『ジョーカー』は傑作なのだ、とも思う。
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 バットマンは、幼少時に父が殺されたことで世直しを志し、長じてはその莫大な資産をいいことに超弩級装備で身を固め、夜な夜な町に出没してチンピラどもに行き過ぎた制裁を加える自警団(←vigilanteの直訳。この訳に不満はあるが)系ヒーロー。そのバットマンにとって、ジョーカーは宿敵であり、悪の権化である、はずだ。
 だが今回のジョーカーことアーサー・フレックは、従来の「自業自得(犯行現場から逃げる際に失敗、等)で化学薬品の中に落ち、見た目が激変した犯罪者」ではない。その特徴的な外見は化粧でしかなく、それも道化として働いていたことに由来するものだ。
 しかも、ホアキン版ジョーカーは極悪非道の犯罪王ではない。むしろ彼こそが世直し側であり、「素行の悪いエリートどもに行き過ぎた制裁を加える自警団(←この訳に不満はあるが)系ヒーロー」なのだ。出自こそバットマンと正反対だが、昔から語られてきた「バットマンとジョーカーは似た者どうし」説を補強する展開ではないか?

 もっとも本作では、のちにバットマンとなるブルース・ウェイン少年はほんのわずかしか出てこない(そしてジョーカーとバットマンの年齢差問題は?)。注目すべきはバットマンの父、トーマス・ウェインだ。
 会ったこともないくせに「ウチの社員だから」というだけの理由で、バカな若造エリートども――バブル期の日本で言う「ヤンエグ」はあんな感じ?――を手前味噌上等にトリビュート。さらに、彼らに制裁を加えたジョーカーをクラウン(道化)呼ばわり&愚弄したことで、ただでさえテンスになっている低所得者たちの神経を逆撫で。自分の政治生命のみならず、市の治安にまで決定的な危機をもたらしてしまう。
 高潔を気取っているが、定型句しかしゃべれない男。
 象牙の塔から出たことがないから、視野が狭いままの企業家。
 そんなトーマス・ウェインが、一般市民――アメリカ流に言えば「残り98%」――の反感を買ってしまうのは当たり前である。

 始末が悪いのは、「高潔を気取らない」タイプの金持ちだ。
 彼らは往々にして、民衆の支持を勝ち得てしまう。
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 町山智浩の『最も危険なアメリカ映画』という本がある。
 この10月18日に出版される文庫版では、私が解説を担当した。それを書くために同書を読み返して思ったのは、アメリカの大衆がどれほど簡単に「味方を気取る政治家」に騙され、操られてきたか、だ。
 エリートへの反感から、同じような反感を口にする連中――レーガンからトランプまで――を支持する「残り98%」の一部。レーガンだってトランプだって、「上位2%」以外のなにものでもないのに。
「肉屋を支持するブタ」という言い方にならって書くなら、「ある肉屋への反感のあまり、もっとひどい別の肉屋を支持するブタ」だろうか。

 だが日本では、「別のブタへの反感から、肉屋を支持するブタ」とでも呼ぶべき層が存在しているように思える。

「誰か、高額納税者党を作ってほしい。少数派を多数派が弾圧する衆愚主義じゃないか」と言ったのは田端信太郎だ。ZOZOTOWNを運営する株式会社スタートトゥデイで「コミュニケーションデザイン」室長を務める男である。
 彼の言動はもちろん炎上するが、その一方で、かなりの支持者を生み出しているようだ。
 その支持者たちが――彼らのツイートの端々から滲み出るあれこれを見ていると――田端自身と同じような富裕層とは思えないところに、この国の病根の深さがある。日本経済の衰えぶりは隠しようもなく、「手取り15万」とか「16万」等がツイッターのトレンドワードになる昨今……
 え、手取り14万?
 そう、そんなことを書いているところに飛び込んできたのが「ホリエモン vs 手取り14万円」というニュースである。

 これにすら「他人とか世間とか国とか政府のせいにしたらいかん」「どう考えてもホリエモンが正しい」と堀江に与する意見が見られる。
 なぜ「そちら側」につこうと思えるのだろう。

 以前も『ビッグイシュー』を販売するホームレスの皆さんを誹謗するような物言いがSNSで散見されていたしなあ。わたしなぞは「明日は我が身」としか思わんのに。
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 日米同時公開となった『ジョーカー』に対して、本国アメリカでは3月公開なのに、ここ日本ではたっぷり半年遅れた9月頭に封切られた作品もある。
 ジョーダン・ピール監督の『アス(Us)』だ。

 同作には、ピール監督の前作『ゲット・アウト』における「脳移植」と同様に、ホラーをホラーのまま終わらせないために理屈をこねる努力がある。その努力は素晴らしいが、『ゲット・アウト』に比べると理屈の詰めが甘い。むしろ、あの説明は省いて、観客の想像に任せる方が良かったかもしれない。
 と、完成度に対する文句はないわけではないのだ。しかしそれでも本作は素晴らしい。
 地下世界に住まうTethered(テザード)という名のドッペルゲンガー種族がレプリゼントしているのは、かつてアメリカ(US)を支えた奴隷であり、現代では差別たっぷりの量刑により安価な労働力と化す囚人であり、這い上がれる見込みはゼロに等しい低所得層であること。あるいは、アメリカを含む第一世界に搾取され続けている第三世界であること。そんな寓話として。

 この映画のタイトルが「我々(us)」とも読めるところに、ジョーダン・ピール監督一流のメッセージと問いかけがある
「所有する人々と、所有せざる人々。君たちは、どちら側にシンパシーを抱くのか?」。あるいは「私たちはどちらに属しているのか?」。

 ……と、ここまでわたしが頑張って書いているのに、よく見たら監督自身が同作のテーマに関してかなりキッチリ説明してしもてる。
 こんな発言だ。
「私たちが享受しているものは、他者の自由や幸福の犠牲の上に成立している。アメリカ合衆国のような特権を享受する存在……(略)……私たちが特権を保持しているとき、他の誰かはそのために苦しんでいる。つまり、苦しむ人間の存在と富を享受する人間の存在は表裏一体だ」

 あれっ?
 これってオメラスやん!
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 「オメラスから歩み去る人々」ことThe Ones Who Walk Away from Omelasは、アーシュラ・K・ル・グインが1973年に発表した短編小説である。初出はロバート・シルバーヴァーグによるアンソロジー『New Dimensions 3』で、75年には彼女自身の短編集『The Wind's Twelve Quarters』に収められた。『風の十二方位』として本邦刊行されたのは80年である。
 ひとことで「短編」と言ってもいろいろあるが、本作は本当に短編もいいところで、我が家にある『風の十二方位』を確かめてみたら僅か10ページほど。それほどの小品でありながら、世界の不平等と不均衡をこれほど見事に描いた文章を、わたしは他に知らない。

 前半の大半は、オメラスの祝祭に関する記述だ。こうして、この都市のユートピアぶりが念入りに描き出される。
 ところが、後半に入ったところで物語は突然、地下牢に閉じ込められた子どもに言及するのだ。「年は六つぐらいに見えるが、実際はもうすぐ十になる」と説明されるその子は、悪臭と汚濁と栄養不良の中で育った知的障害児。この都市で唯一の不幸な存在である。

 曰く……
「その子がそこにいることは、みんなが知っている――オメラスの人びとぜんぶが」「彼らの幸福、この都の美しさ(中略)そして豊作と温和な気候までが、すべてこの一人の子どものおぞましい不幸に負ぶさっていることだけは、みんなが知っているのだ」
「その子をこの不潔な場所から日なたへ連れだしてやることができたら、もしその子の体を洗いきよめ、おなかいっぱい食べさせ、慰めてやることができたら」「だが、もしそうしたがさいご、その日その刻のうちに、オメラスのすべての繁栄と美と喜びは枯れしぼみ、ほろび去ってしまうのだ」
「オメラスのあらゆる生きものの美しさと優雅さのすべてを、そのたった一つのささやかな改善とひきかえるか。何千何万の人びとの幸福を、一人の幸福の可能性のために投げ捨てるか」

 アメリカで言う「富裕層2%と残り98%」ではなく、『アス(Us)』の1on1対応でもなく。「幸せという特権を享受する99.9%と、その犠牲となって不幸を一身に背負う0.1%」。
 この極端な構図によって、「これが世の中というもの」「変えようがない」と言い訳する連中、特権を手放さない側の情けなさが、余計に浮き彫りになる。
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 ただし。
 映画『Us』は虐げられてきた者たちの蜂起の物語である。
 映画『ジョーカー』でも――半ば意図せざるものではあるが――やはり、ある種の反乱が描かれる。
 他方、「オメラスから歩み去る人々」は違う。
 もともとオメラスに住んでいた人たち、ピール監督が言うところの「特権を享受する存在」には、偽りのユートピアを捨てて歩み去る自由がある。現実と同じように。もっとも、それが直ちに世界の不平等を正すことには繋がらない。現実と同じように。

 しかし、肝心の少年には逃亡も反逆も蜂起の余地も残されていないのだ。やはり現実と同じように。
 これまで長年にわたって徹底的に収奪され、搾取され、決定的な差をつけられてしまった側には、そのシステムを覆すだけの力がない。あるはずもない。少なくとも、一朝一夕では無理だ。その「決定的な差をつけられた側」が、「先進国」内の低所得層であれ、第三世界であれ。

 でも、いつも大切なのは、what ifを問う心である。
 オメラスの地下牢の少年が、反撃の機会をつかんだら?
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 それを描いたのがBTSこと防弾少年団ことバンタンソニョンダンのMVである!……というのは、あまりに出来すぎに聞こえるだろうか。アーシュラ・K・ル・グイン信奉者(彼女の名と生年を体に刻んでいる者はさほど多くない)にして、防弾少年団ファンのわたしが言うと。

 だが実際に、防弾少年団が2017年2月に発表した曲“Spring Day”のビデオには「Omelas」というネオンサインを掲げた建物が登場するのだ。とても示唆的な、「空室なし」という看板と共に。


 ここからは解釈が分かれるところだ。「BTSの面々はオメラスの偽善性に気づいて歩み去った」とも言われるが、本稿では別の説を取り上げたい。

 そのBTSが2018年5月にリリースした“Fake Love”のビデオを見てみよう。


 穏やかな“Spring Day”と違い、部屋が爆発したり水が氾濫したりと激しい展開を見せる作品だ。なんにしても末っ子メンバーのジョングクが、やたらと暗いスペースにいるのはわかる。逃げ出そうと苦闘しているように見えるし、崩壊する廊下を疾走するシーンもある。
 そこで、一説に曰く!
 実はこのビデオは件の“Spring Day”の後日談であり、みんなの偽りの幸せのために犠牲となっていたジョングクが逃亡と反撃を試みる様を描いたもの……とか!

 これはあくまでも一つの可能性、一つの解釈に過ぎないだろう、もちろん。「実は『ひょっこりひょうたん島』は死後の世界である」という説のように、多様な解釈が存在する中の一つ。

 ただ、皆さんにはこう考えていただきたい。「虐げられ、踏みつけられてきた者がついに立ち上がったとしたら」と。
 それを見つめるあなたはどちら側にいるのか、どちら側につくのか。
 トッド・フィリップス監督やジョーダン・ピール監督やアーシュラ・K・ル・グイン同様に、わたしもそれを問いかけたいのだ。