丸屋九兵衛

第22回:「一重まぶた vs 二重まぶた」の美醜。親を恨むより、今こそモンゴル帝国を恨もう

オタク的カテゴリーから学術的分野までカバーする才人にして怪人・丸屋九兵衛が、日々流れる世界中のニュースから注目トピックを取り上げ、独自の切り口で解説。人種問題から宗教、音楽、歴史学までジャンルの境界をなぎ倒し、多様化する世界を読むための補助線を引くのだ。

 関西弁には不思議な表現がある。関西人のわたしから見ても。

 ごく狭い地域でしか通用しない――言語とは本来そのようなもの、とも言えるが――特殊な局地的語彙も目につく。特に、京都府か奈良県か判断に迷うような微妙なエリアで使われる「シャ」という名詞は、わたしにもエイリアンだ……空中に斜め線を引きながら発声せねばならんようだし。
 英語のhomieに相当する、なかなかナイスな親愛表現らしいが。

 そんな関西の局地的表現の中に「ヒトカワメ」というものがある。
 若き日のわたしがその言葉を使ったら、たいていの関東ピープルは困惑していた。「人・河・女」とでも解釈したのか、「それって人魚?」と返す人がままいたものだ。河川に生息しているとあれば、人魚としては珍しい淡水タイプとなろうか……。
 実際には、ヒトカワメとは「一・皮・目」。一重まぶたのことである。
 当然ながら対義語があって、それはもちろん「フタカワメ」。二重まぶたを意味する「二・皮・目」だ。
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 こんな話で始めたのはなぜかと言うと。
 過日、「一重まぶた」と「二重まぶた」がトレンドワードとなり、ツイッターでは「まぶたのタイプ」と「美醜」に関する激論が勃発していたのだ。

●なぁにが「一重まぶたには一重まぶただけの魅力があるんだよ」だよ。周りの意見とか関係なしにただ二重まぶたになりたいだけなんだよ

●二重まぶたのブスも一重まぶたのブスなら圧倒的に前者のが可愛いんだよこれマジで鉄則と言っていいから。何が一重まぶたでも可愛いだよ一重まぶたで可愛いのはほんのひと握りなんだよお前ら二重まぶたに対しての女子側の憧れを踏みにじるんじゃねぇ不愉快だ

●一重とか二重とかトレンド入りしてるけど、結局可愛い芸能人とかみんな二重じゃん!

等々。

 かようにいろいろな意見が爆発する中、わたしが注目したのは「恨むなら一重と結婚した親を恨んでください」というツイートだ。
 そこで!
 まずは一重まぶたのルーツについて考えてみよう。
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 我々東アジア人――a.k.a.「平たい顔」族――の先祖は、寒風吹きすさぶシベリアはバイカル湖のあたりで進化した、と理解されたい。その地域は、当時の地球で人類が到達していた範囲内では最も冷え込む地域だったと思われる。
 なんでそんなところに住むことにしたのか、それはわからぬ。
 やはり我々の先祖である硬骨魚類の場合、海での生存競争に敗れ、やむなく河川という未知の領域に新天地を求めた……という紆余曲折がある、と聞く。それを考えると、バイカル湖ピープルも同様に故地から追い出された結果、北国に行き着いたのかもしれない。

 そして。淡水生活で鍛えられた後で海に戻った我が先祖たち(魚)が、河川で獲得した強みを活用して海の王者・硬骨魚類となったのと同様に、酷寒の地を耐え忍んだ我が先祖たち(ホモ・サピエンス)も得るところがあった。

●手先が器用である
「数学が得意」「コンピュータに強い」等と共に、我々に対するステレオタイプ。これに辟易している人(特にアジア系アメリカ人?)も多いのだろうが、おそらくは、ある程度まで事実と思われる。
 より科学的な言い方をすると、「目と手の協調作業に優れている」となろうか。それはおそらく、世界のどこに住む人類よりも早く、衣服を作る必要にかられたから。東アジア人が卓球に秀でているのも、そのおかげ……と、00年代前半に議論を巻き起こしたスポーツ科学書『黒人アスリートはなぜ強いのか?』に書かれていた。
 ブラジルやオーストラリアといった移民大国はもちろん、東ヨーロッパやアフリカでも、卓球の代表選手に東アジア系が多いのは事実である。

 ……と同時に、寒冷地に適応してしまったがために、他の人種と比較してこんなことにもなった。

●手足が短い
 正確には「腕と脚」と言うべきか。細長い部分は体積に対する表面積の割合が大きいから、体熱が奪われやすい。寒冷地では不利である。

●体毛が少ない
 いや、顔毛の方が顕著かもしれない。フェイシャルヘア、つまりヒゲである。
 わたしと同様のヒゲライフを歩んでいる同志ならばご存じだろう。ヒゲには水分が付着しやすい。寒い地方なら、吐く息の水分がヒゲに付着して凍りつく事態にもなろう。寒冷地で生き延びるには、顔面凍傷は避けねばならない。

●平たい顔
 さて、これが肝心なところだ。
 なんと言っても寒冷地。先ほどから強調しているとおり、生き残るのには凍傷にかからないことが必要だ。となると、突起部分が目立つ鋭角な顔、彫りの深いつくりは禁物である。高く尖った鼻なんて、凍傷予備軍以外の何物でもない。だから鼻は低く小さく、眼窩のくぼみもミニマムが望ましい。
 で、どちらが卵かニワトリかわからないが……鼻の付け根が低くなると、そのあたりの皮膚が余るから、まぶた面積が増大。体脂肪多めの体質と相まって、突き刺すように冷たい外気から眼球を守るファットなプロテクターとなる。さらには蒙古ヒダというオプション・パーツも登場し、涙点に近い目がしら側(涙が凍ったらエラいこっちゃである)を手厚く防御できることになった。これで凍傷予防策はバッチリだ!
 かくして、我々の特徴である細い目が誕生した。

 ……と、いろいろ書いてきたが、わたしは専門家ではない。ゆえに、上記の――「凍傷万能論」のきらいもある――セオリーは、はなし半分に聞いてくださって結構。ただし、それでも竹内久美子よりはだいぶマシである。
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「一重まぶたと結婚した親を恨め」というツイートを見て思い出したのはナイル・ロジャーズだ。

 ナイル・ロジャーズといえば、数十年のキャリアを誇る米黒人ミュージシャン。70年代後半、Chicというバンドを率いてディスコ・ブームを盛り上げ、80年代にはデイヴィッド・ボウイをプロデュースし、今に至るまで活動を続けている大物である。

 そんな彼が親戚の間で邪険にされた過去を告白する記事を読んだことがある。
 彼の家系(母系)は、世代を重ねるごとに色白となることを目指し、「ライトスキンの男性と結婚すべし」をモットーにしていた。しかし彼の母は、カリブ海から来たダークスキンの男性と恋に落ち……そしてナイルが生まれた。その色黒の肌のせいで、彼は一族の中のブラック・シープだったとか。
 キャリアの後半に入ってからドレッドロックスというヘアスタイルとなったのも、彼が自己のアイデンティティと向き合う中で選んだものだという。
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 UCLAの名物教授ジャレド・ダイアモンドは、とあるパプア・ニューギニア人に「あんたたち白人はたくさんカーゴを持っているのに、なんで俺たちにはカーゴがないんだ?」と問われたことから、世界の不均衡について考えるようになった。こうして生まれたのが、名著『銃・病原菌・鉄』だ。

「カーゴ」とは。
 先住民社会がヨーロッパ文明と接触して衝撃を受けたところを想像してくれ。やがて、ヨーロッパ人が見せる魔術のような力――充分に発達した科学は魔法と区別がつかない――の発生源として彼らが持ち込んだ装置・機械・荷物に注目した先住民は、それらの荷物「カーゴ」に対して渇望と憧憬を抱くようになる。
 その仕組みを理解しないまま、カーゴを「魔力を有するアイテム」的に解釈した結果、カーゴを対象とする信仰が成立するのだ。これが「カーゴ・カルト」である……とまあ、乱暴な説明ではあるが。

 19世紀半ば、欧米文明と接触し、そのパワーに衝撃を受けた頃の日本も思い出してみよう。彼我の差は技術の差であって、彼らと我々の見た目の違いに由来するものではない。しかし、欧米を仰ぎ見て「文明開化」を志向した当時の日本人は、スーツやザンギリ頭をロックし、鹿鳴館でダンスに明け暮れた。それによって欧米に追いつけるかのように。
 明治の日本人にとって、洋装・ザンギリ頭・舞踏会はカーゴだったわけだ。

 顔の美醜も、一種のカーゴ・カルトではないか。
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 司馬遼太郎の『義経』に、面白いくだりがある。
 平泉で奥州藤原氏の庇護を受けた義経は、藤原氏——やや異民族という設定だ——傘下の女性をあてがわれる。彼女を見て義経は「醜い」と思うのだが、著者は「今であれば美人と見なされるであろう、目鼻立ちがくっきりした容貌」等とナレーションするのだ。

 美醜とは絶対的なものではない。
 では、その基準はどこにあるのか? なぜ人々は、これを美と見なし、あれを醜と見なすのか。
 ごくごく単純化して考えれば、富と力を持つ者の形質が美であり、それらを持たざる者の容貌が醜なのだ。

 我々東アジア人に特徴的な形質――細い目、低い鼻――が「美しい」と捉えられることが少ないのは、ここ数百年の世界史の流れの中で、富と力が我々の側になかったから。
 アフリカ系の黒い肌や厚い唇が「美しい」と捉えられることが少ないのも、やはり同じ理由だ。
 だから、黒い肌を白くしようとする黒人家系がいて、細い目を大きくしようと奮闘するアジア人もいる。

 しかし、歴史の流れが違ってさえいれば。
「平たい顔」がありがたがられ、羨望の眼差しで見られることも大いにあり得たのではないか。
 そんな歴史の分岐点、世界史の“What if”を考えてみたい。
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 流れが変わりえたポイントとしてわたしが考えるのは13世紀半ば。
 より正確には1241年だ。

 この年には、「ワールシュタット/レグニツァの戦い」や「モヒの戦い」等で知られる、モンゴル帝国軍による西征キャンペーンが展開されていた。
 軍を率いるのは、帝国の始祖チンギスの長男ジョチの次男バトゥ。この後で分裂して「連邦」化するモンゴル帝国の中で「ジョチ・ウルス/キプチャク・ハン国/金張汗国/The Golden Horde」を創始する名将だ。
 この一連の戦いで、ポーランド&ドイツ諸侯連合軍やハンガリー軍を完膚なきまでにコテンパンのボロボロにしたモンゴル帝国軍は、破竹の勢いでさらに西進し、続いてウィーンを攻め落とす……はずだった。
 だが折悪しく、本国の皇帝オゴデイが急逝。こういう時にモンゴルの皇族王族貴族が行なうのは、家族会議「クリルタイ」である。開催場所は帝国の首都カラコルム。次のハーンを決める会だから、一族の重鎮バトゥは当然ながら参加せねばならん。
 こうしてモンゴル軍はあっさりと引き返し、ウィーンはモンゴル軍の攻撃を免れたのだ。

 わたしが夢想するのは。
「この時、もしバトゥが家族会議を無視して西に進み、ヨーロッパ侵攻を続けていたら」である。
 本来の目標にはドイツやフランスも含まれており、それが成功すればやがてはイベリア半島も含む大陸ヨーロッパほぼ全土がモンゴルの支配下に入ったかもしれない。海を隔てたブリテン諸島やアイスランド、陸続きだが侵攻困難と思われるスカンディナヴィア半島はともかくとして。
 ヨーロッパの大半がモンゴル帝国領と化し、数百年が過ぎたら……どうなったろう?

 遊牧国家が騎兵主体の軍事力を頼りに長期安定政権を築き上げられるか否か、それは不明だ。しかし、まだまだアジアが技術的にも経済的にも軍事的にも優位な時代――いわゆる「知力・体力・暴力、どれをとっても負けん」――に、彼らがヨーロッパの大半を支配するに至ったら。
 細い目に低い鼻のアジア顔が、白人が羨望する「カーゴ」となり、彼らの方が我々の「平たい顔」に憧れる結果になったのではなかろうか。

 そう考えると、家族会議を優先したバトゥの決断が悔やまれてならない今日この頃である。わたしが悔やんだところで、どうなるものでもないが。
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 ただし、21世紀に入って約20年が経たんとする今。形勢は少しだけ変わり、テーブルはターンしつつあるのかもしれない。
 何年か前、「K-POPと韓国カルチャーが好き過ぎて、コリアン顔に整形したブラジル白人男性」が話題になった。その後、さらにピンポイントで「防弾少年団(BTS)のジミンをモデルに整形したイングランド白人男性」も登場。
 長きにわたって白人至上主義で展開されてきた「魅力ヒエラルキー」に生じたこの異変、平たい顔族の一員としてのわたしは、ちょっと嬉しく思ったものだ。

 ただ、整形で得た容貌はあくまで借り物のカーゴでしかない。彼ら(ブラジル人とイングランド人)自身のためを思うなら、「自分自身であることにカンファタボーであれ」と忠告すべきだろう(もう手遅れだが)。
 それが近年の流れ、ボディ・ポジティヴの目指すところでありまして。
 まさに防弾少年団の言葉を借りるなら……「LOVE YOURSELF」でございます。

追伸1
 件のツイッター激論の中で目撃した「よく知らないけど一重まぶた?二重まぶた?が話題なの?よく知らんが私の美しい一重でも見ていきな」という投稿に希望を感じつつ。

追伸2
 アジア的な顔立ちの黒人シンガー、ジョン・レジェンドが米『ピープル』誌の「最もセクシーな男性2019年」に選ばれたことも喜びつつ。彼はアジア系ではなく、ネイティヴアメリカンの血を引いているのだが。