3月に発表されたジェンダーギャップ指数2021。日本は156か国中120位だった。前回(2019年)の121位から1位順位を上げたとはいえ、要は低位置安定だ。が、それはそれ。2021年は日本にとって記念すべき年になるかもしれない。
キッカケは、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森喜朗前会長の発言だ。二月三日、JOC臨時評議員会で、森は「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と述べた。「私どもの組織委員会に女性は七人くらいおりますが、みなさん、わきまえておられて」とも発言した。
これが女性差別発言として世界中から非難を浴び、IOCは九日、「森会長の発言は極めて不適切で、IOCが取り組む改革や決意と矛盾する」という声明を出した。国内ではツイッター上に「#わきまえない女」というハッシュタグが立ち、批判が殺到。当初やめないといっていた森は辞任に追い込まれた。
類似の事案はこの後も続いた。三月一八日には、東京五輪開閉会式の演出を統括する売れっ子ディレクター佐々木宏が、女性タレントの容姿をネタにした愚劣な演出案を提案していたと「週刊文春」が報道。佐々木は謝罪文を出して責任者を辞任した。
さらに三月二四日には、テレビ朝日「報道ステーション」のCM動画が「炎上」した。動画では若い女性が〈どっかの政治家が「ジェンダー平等」とかって、いまスローガン的に掲げてる時点で、何それ、時代遅れって感じ〉としゃべる。野党の女性議員も含めて批判が殺到。テレ朝は動画を削除し、謝罪文を出した。
政治家の性差別発言や性差別的なCMは、これまでにもたびたび問題にされてきた事案である。ただ、これまでと違うのは、それらがウヤムヤにされず、当該者の責任が問われる事態に発展したことだろう。五輪のおかげで日本の後進性が露呈し、ようやく日本社会がジェンダー平等の重要性に気づいたのだともいえる。
しかし、日本に第二波フェミニズムの狼煙が上がったのは70年代初頭。五〇年も前なのだ。ここまで来るのに、なぜそれほど時間がかかったのか。ヒントになりそうな本を読んでみた。
フェミニズムの言説は伝わっていない
『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!』は団塊世代の上野千鶴子(1948年生まれ)に団塊ジュニア世代のマンガ家・田房永子(1978年生まれ)が教えを請いにいくというスタイルの対談本だ。巻頭のマンガで田房は描く。
1995年頃、〈私が女子高生の頃 フェミニズムなんて言葉、日常で誰も使ってなかった〉。2000年代の世の中は〈早く結婚しないと負け犬になるー〉〈バイトは社員の花嫁候補なんだよ♪〉という感じだった。ところが2010年代後半、〈世の中の動きが変わってきた〉。#MeToo、東京医大不正入試、CM抗議、セクハラバッシング、フラワーデモ。そして二〇一九年四月、上野千鶴子による〈東大祝辞に日本列島が衝撃!〉。
母との関係で悩んでいた田房は2018年以降の動きに呼応してフェミニズムに興味を持ったようだ。そして二人の対話がはじまるのだが、興味深いのは二人のジェネレーションギャップである。
田房〈私、結婚するしない、子育てするしないにかかわらず、女の人が生きるストレスを軽くするためには、自分や家族のルーツみたいな個人的なことと社会や歴史のことを、あわせて理解した方が絶対にいいって思うんですよ〉。上野〈はい。おっしゃる通りです。それを私たちが学んだのがウーマンリブです〉。田房〈そうなんですか!〉。上野〈まさにリブの標語どおり、「The personal is political――個人的なことは政治的なこと」。夫とうまくいかない、親とうまくいかない、私が悪いんだ、いや相手の性格が悪いんだって、女たちはそう思って悩んできた。でもいったん口にしてみたら「あるある」だらけだった。(略)それまで個人的なことや、性の悩み、夫婦の葛藤などは口にしちゃいけないことだったから〉。
田房と同じ問題意識は、五〇年も前のウーマンリブがとっくに提起していたってことである。
田房〈社会にはA面とB面があると思うんです。政治経済とか、時間とか、雇用は社会のA面で、裏側のB面には生命とか、育児とか、介護とか、病気とか、障害とかがある。(略)A面には男たちがいて、女たちも最初はこっちで暮らしてるんだけど、出産や育児にぶち当たった時、B面にぐーんって行かなきゃいけないんです〉。上野〈あなたの言語表現力、すごいと思う。(略)ところが、それと同じことを、フェミニズムはずーっと前にちゃんと説明してる(笑)!〉。田房〈きゃー! そうなんですか⁈〉。
その一例が自著『家父長制と資本制』だと紹介しつつ、上野はいうのだ。〈素晴らしい表現能力だなっていう感嘆の思いと、私たちが悪戦苦闘して獲得してきた概念や言語が次の世代にまったく伝わっていないという無念さと、両方感じるわね〉。
これはフェミニズム第一世代の実感だろう。上野より一世代下の私ですら、男性や若い人たちと話していて「こんなことも知らないんだ」と知って唖然とすることは少なくない。
自分の世代にとってフェミニズムは完全にネガティブなイメージだったと田房はいう。だから〈私は自分で「フェミニストです」って言ったことがないんです〉。その雰囲気が明らかに変わったのは2019年。〈堰を切ったようにフェミを名乗る人たちが現れてきて、そこに上野さんの祝辞だったんです〉。
これは言祝ぐべき大きな変化といえる。いえるがしかし、田房のような団塊ジュニア世代を中心に「フェミフォビア」とも呼ぶべきフェミニズム離れが進んだのはなぜだったか。そこが解明できないと、事態はまた元に戻らないとも限らない。
90年後半から2010年代前半まで約二〇年、フェミニズムは冬の時代だった。理由は二つあると私は考えてきた。ひとつはかつてウーマンリブと呼ばれていた運動が、フェミニズムや女性学という学問に昇格して、大衆的な広がりを失ったこと。もうひとつは、バックラッシュと呼ばれる右派論壇からの凄まじい攻撃にさらされて、「フェミニズムに近づくのは損だ」という警戒感が広がったこと。が、原因はそれだけではなかったのかもしれない。
ポストフェミニズムとは何か
高橋幸『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど』の副題は「ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ」。「ポストフェミニズム」とは〈「フェミニズムの時代は終わった」という感覚が広がり、「フェミニズム離れ」の傾向が見られるようになる時代や社会的状況のこと〉と定義した上で、90年代以降の先進国では、なべてこうした感覚が広がったと高橋はいう。
バックラッシュ派(アンチフェミニスト)とは異なり、ポストフェミニストはジェンダー平等そのものは望ましい目標として肯定する。肯定した上で、平等はすでに達成されており、ジェンダーの問題は運動するような問題ではないと考える。
〈「フェミニズムは終わった」という言説は、「フェミニズムを主張することは、流行遅れでカッコわるい」という価値判断(趣味判断)を伴ったものであったがゆえに流通した〉のである。報ステのCMは、まさにこのイメージに則った(今日ではすでに流行遅れの?)ポストフェミニズム的表現といえる。
2013~14年に英語圏で起こったハッシュタグ運動で投稿されたテキスト「私がフェミニズムを必要としない理由」を分析し、高橋は「ポストフェミニスト」を二つのタイプに分類した。ひとつは「私は夫のためにクッキングするのが好き」などの「女らしさ」重視派、もうひとつは、〈自分はフェミニズムが言うような「女性」ではなく「個人」である〉と主張する「個人」主義者である。
注意すべきは、ポストフェミニズムはネオリベラリズムと軌を一にしているという指摘だろう。女性にも就労の自由やキャリア継続の道をという第二波フェミニズムの目標は、産業構造が変わって資本の要請と合致したため、政府によって進められるに至った(安倍政権が掲げた「女性が輝く社会」なども、思えばまったくこれである)。別言すれば、ネオリベ的女性登用策によって、経済的自立と性愛の自己決定権を獲得した女性たちが少数とはいえ登場し、平等が実現したかのような錯覚が起きたとも考えられる。
しかし、時代の位相はさらに変わった。フェミニズムを肯定的に捉える若い世代は、上野千鶴子世代が築いた70年代のウーマンリブや80年代のフェミニズムはもちろん、田房永子や高橋幸(1983年生まれ)の青春時代に台頭したポストフェミニズム(フェミ嫌い)も経験していないのである。〈じゃあ半世紀、私たちがやってきたことはなんだったんだろう〉という上野の嘆息を私は共有するし、〈やっぱり伝えるための芸、それが私たちに足りなかったのかなって思うのよ〉という自戒の弁にも「その通り!」と答えたいけど、目を向けるべきはやはり過去の断絶よりも未来だろう。
今日のいわば「ポストポストフェミニズム」の状況下において、以前にもましてクローズアップされているのは男性社会の側の問題である。ホモソーシャルを「ホモソ」と呼ぶのはいまや定番。太田啓子『これからの男の子たちへ』は、〈近年立て続けに問題となった深刻な性差別事件、性暴力事件の報道を見ると、その背景に「有害な男らしさ」の影響を色濃く感じざるをえません〉と述べている。森発言にしろ、五輪の演出問題にしろ、批判されたのはまさに旧態依然とした「有害な男らしさ」だった。「男子ってバカだよね」「仕方ないわね」的な言い方で、私たちは「ホモソな男」の再生産に手を貸していないか。課題はまだまだ山積みなのだ。
【この記事で紹介された本】
『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!』
上野千鶴子+田房永子、大和書房、2020年、1650円(税込)
〈7時間ぶっ通しで聞いてきました!〉〈イヤなことには、いちいち目くじらを立てていっていい!〉(帯より)。母娘ほど年の離れた二人の対談。「女はどうしてこんなに大変なの?」「女はどうやって闘ってきた?」など、雑談を交えつつも根本的な問題から歴史まで盛り込んだ充実の内容。〈東大の新入生を見て、「オヤジは再生産される」って思いました(笑)。〉などの名言も炸裂する。
『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど』
高橋幸、晃洋書房、2020年、2200円(税込)
〈「もうフェミニズム〉に頼らなくても、女性だって活躍できる」〉〈では、私やあなたの心のどこかに張りついている「女であることの不安」はいったいどこからくるのだろうか〉(帯より)。副題は「ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ」。フェミニズムをめぐる、主として2000年以降の言説や現象を分析。英米でも日本でも似たような事態が起きていたことに驚かされる。
『これからの男の子たちへ――「男らしさ」から自由になるためのレッスン』
太田啓子、大月書店、2020年、1760円(税込)
〈弁護士ママが悩みながら考えた、ジェンダー平等時代の子育て論〉(帯より)。著者は二人の男の子の母(1976年生まれ)。日常生活にひそむジェンダーバイアスから、セクハラや性暴力の問題まで丁寧に解説。「有害な男らしさ」を刷り込む三大問題は、「男子ってバカだよね」問題・「カンチョー放置」問題・「男の子の意地悪は好意の裏返し」問題だと喝破するなど、頷ける指摘が多い。