「鶴は千年、亀は万年」ということわざがある。実際にはそんなに長生きはしないが、鶴と亀は古くから長寿の象徴であり、おめでたい吉祥文様として親しまれていた。特に亀の場合、甲羅に藻が付いて尻尾のようになった「蓑亀」という想像上の姿で描かれることが多い。
ここで葛飾北斎が描いた「亀」(図1)を見てみよう。想像上の蓑亀ではなく、現実の亀の姿で描かれている。3匹の亀たちが陸に上がり、甲羅干しをしようとしているのであろう。少しでも良い位置で日光を浴びようと、互いの背中の上に乗ろうとしている。上にいる2匹は首を長く伸ばし、日の当たるポジションを譲ろうとはしないようだ。実際に亀を飼い、その動きを間近で丹念に観察しながら描いたかのような作品である。
では、なぜ北斎は亀を描いたのだろうか。実はこの浮世絵、それまで「宗理」と名乗っていた北斎が「北斎辰政」と改名にするにあたって、仲間内にお披露目として配布するための摺物(特注の非売品の浮世絵版画)であった。改名という、絵師にとって大事な節目だからこそ、これからの活躍が長く続くよう、おめでたい亀が選ばれたのだ。
さて、江戸時代には、猫や狆のほか、鼠や金魚、小鳥がペットとして人気だったが、亀も飼われていたようだ。小さな子どもが亀の胴体に紐を結んで散歩させている様子を、北斎が「冨嶽三十六景 隠田の水車」で描いている。
だが、亀と人間の関係は、飼う、飼われるだけではない。歌川広重の「名所江戸百景 深川万年橋」(図2)では、一匹の亀が胴体を細い紐で縛られて、宙づりになっている様子が描かれている。首を長く突き出し、手足をバタバタとさせているが、いったいなぜ亀はこんな仕打ちを受けているのだろうか。
場所は、隅田川に注ぐ小名木川に架かる万年橋の上である。茶色い欄干にぐっと近づいて、その隙間から遠くの富士山を眺めている。欄干の手前に拡大して描かれているのが、黄色い手桶だ。亀は手桶の持ち手となる横木にぶら下げられているのである。
実はこの亀、橋を通り過ぎる人たちに向けて販売されていた。愛玩用のペットとしてではなく、「放し亀」にするためであった。捕獲した生き物を野に放すことで殺生を戒める、放生会という仏教の儀式がある。「放し亀」はそこから派生した風習で、川や池のそばで売られている亀を購入し、水の中に逃してあげることで、功徳を積めるというものであった。亀が人間の心の安らぎに一役買っているのである。亀の他にも、鰻や雀も放生の対象であった。現代でも、日本はもちろん、仏教への信仰が篤いタイでも行われているそうだ。
だが、悪い放し亀売りもいたようで、客が逃した亀を捕まえて、再び売り物にするなんてこともあったらしい。皆が皆、動物が大好きな心優しい善人とは限らない。