思い出す、という仕草、行為にここ数年ずっと特別な感情を抱いている。思い出す、振り返ってみるという目線に宿る不思議な切なさ。ノスタルジーといわれてしまえば、それまでなのかもしれないけれど、単純にそれだけではないなにか。それを掴まえてみたくて作った作品が『SALE OF BROKEN DREAMS』というアルバムでもあり、『WHALE LIVING』というアルバムだ。そしてそれは『シカゴ育ち』という一冊の本に出会ったことがきっかけだった。
スチュアート・ダイベックの作品を初めて読んだのは、友達がプレゼントしてくれた短編アンソロジー『Don’t Worry Boys』に収められていた「血のスープ」という短編で、2015年のことだった。電車の高架に囲まれた町の角を駆けていく兄弟たちのほんの小さな冒険。風景や匂い、電車が通り過ぎるごうごうという音、が頭のなかに広がる描写と、どこか薄いフィルター越しに過去をみつめるような物語の語りかたに僕はすぐに魅了されてしまった。
その短編を読んだ次の日に、四条の丸善で『シカゴ育ち』と『僕はマゼランと旅した』の2冊を買った。どちらも「血のスープ」と同じシカゴの町を舞台にした短編小説集で(『僕はマゼランと〜』の方は連作小説のような形になっている)とても素晴らしかったのだけれど、特に『シカゴ育ち』の「熱い水」「ペット・ミルク」「冬のショパン」といった短編には心奪われた。スチュアート・ダイベックの過去を振り返る語りの目線に(もちろん柴田元幸氏の素晴らしい翻訳の効力も多分にあるとは思うのだけれど)、僕はすっかり魅了されてしまった。
スチュアート・ダイベックの物語のなかで思い出されることは、他の誰かにとってはほんの些細な出来事や感情でしかない。だけど、彼はそんな小さなものがずっと自分から離れない、ということ事自体を描こうとしているのではないだろうか。「血のスープ」での兄弟の小さな冒険、「冬のショパン」での泣き声の持ち主、「マイナー・ムード」で祖母が口ずさむ《ユア・マイ・サンシャイン》、「ペット・ミルク」で列車からみたある日の自分。どこまで歩いてもついて離れないようなものたちがいる、ということを。
作中の、スモールタウン、冬の寒さ、高架、大きな川、いくつもの連なる工場、といったシカゴの景色は、僕がこれまで暮らしてきた石川の小さな町や京都、そして今住んでいる東京の郊外の町並みをぐちゃぐちゃにひとまとめにしたもののようで、それでいて、僕がずっと憧れ続けているアメリカのレンガ街の風景でもある。僕は彼の短編を読みながら想像上のシカゴの町並みに佇み、これまでのどこかで感じてきた寒さや風を感じる。
長年暮らしてきた京都を離れて東京のベッドタウンに住んで1年半が過ぎた。そのうちの半分以上の時間を自分の部屋で過ごすことになったのは予想外だったのだけれど、自転車での散策や夜の散歩なんかを重ねていくなかでとても好きな場所や景色をいくつか見つけた。それと同時に、思い出す町や景色も増えた。年を重ねるごとに、ふとした瞬間に浮かび上がってしばらくそこから離れないでいるような情景。それをじっと見つめているような、そんなスチュアート・ダイベックの短編は、どこにいっても僕にとってとても大事なもので、これからそんなふうに思い出すものが増えていくごとに手に取るのだと思う。