昨日、なに読んだ?

File65.どれが正しい情報か迷ったときに読む本
近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』、梅棹忠夫『情報の家政学』、中井久夫『治療文化論』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。

 とにかく、コロナだ。オリンピックが終わっても当然ながら感染症の流行は続いていて、自粛生活もいつになったら終わるのかわからない。ワクチンができて一安心かと思えば、そちらも混乱が続いている。ゆっくり本も読めやしない。
 僕は医師だけれども、コロナには詳しくない。毎日洪水のように押し寄せる新情報はとてもじゃないが消化しきれそうにないし、ほんの少し目を通すだけでも、あらゆる人の不満、不安、怒りが伝染してくるようで、いやになってしまう。
 この感じは、個人的には、2011年の震災のときにもあった。怖くてたまらなくなったので、テレビは見るのをやめた。あのとき安否の連絡のためにツイッターやフェイスブックを始めた人が大勢いて、すぐにやめた人も大勢いたので、「情報疲れ」と言われたりもした。
 僕も疲れていた。忙しかったのもあって、仕事に直接関わらないお気楽な本は読む気にもならなかった。
 それは間違いだったと思う。あのときベストセラーの棚に少し目をやって、気まぐれに『人生がときめく片づけの魔法』を読んでいたら、もっと楽になれたはずだ。実際には、僕はおよそベストセラーというものをひどく馬鹿にしていたので、そんな想像にはまったく現実味がないのだけれど。
 僕の部屋はめちゃくちゃに散らかっていた。ベッドの上にも、分厚い、難しい本を積み上げていた。そして実際にはいつまでも読まなかった。
 こんまりが教えるのは、そういう本を捨てるということだ。一見家事のノウハウを教える本のような体裁をとりつつ、話は「マインド」だとか「ときめき」だとか、スピリチュアルな方向にどんどん展開していく。こんまりの口調を借りて言うなら、僕は身の丈に合わない本に欲を出すあまり、自分を見失っていたとでも言えるだろう。どうしても捨てたくない欲望を少数に絞り込んで、ほかの雑多な欲望にケリをつけていくこと。それがこんまりの教えであり、僕にできていなかったことでもある。
 何年か経って僕は転職し、引っ越すことにした。何か月もかかって部屋を片づけた。本棚に入れっぱなしになっている偉そうな本を100冊以上間引いて古本屋に持って行った。
するとどうだ。
 勉強したくなってきたのだ。自分の本棚が、難しい本でいっぱいのように見えて、いかに似たような本の寄せ集めでしかなく、ほとんどはなぜ買ったかももう忘れていて、肝心の基礎文献はスッポリ抜けているか、整理してみてはじめてわかった。
 不思議なことに、気持ちが変わったときにはちょうどその変化を言い当ててくれる本に、ぜんぜん別の文脈で出会うことがある。食文化について調べていて手にとった梅棹忠夫『情報の家政学』もそんな出会いだった。おなじみのカードシステムを翻訳するかのように、タグをつける、規格化する。そしてこんまりを予言するかのように、どんどん捨てる。燃やす。
 いわば、情報とは減らすことなのだ。複雑な情報を要約して処理しやすくすることではじめて、情報が情報として機能し、本当に必要な次の情報を指し示してくれる。
 情報とは減らすこと。この感覚ができてから、本の読み方も変わった。細部はわからなくてもかまわない。間違った解釈をしてさえかまわない。大事なのは、その本を自分の読書歴のどこに位置づけ、次に何を読むかだ。そう思うようになった。
 すると、以前なら背伸びして買っただけで放り出していた難しい本が、読めるようになった。厳しい面々からは「それは読めるようになったのではなく素通りするようになっただけだ」と言われるかもしれないが、素通りさえしないよりはずっといいのではないだろうか?
 中井久夫『治療文化論』もそうやって素通りした。治療は治療文化によって規定される。治療文化すなわち、何を病気とし、何を治療とし、何を目指して治療するかについての合意は、治療者と患者とそれを取り巻く人々のあいだでそのつど形成され、つねに更新されている。難しかった。正しく読めたかどうかはわからない。でも自分なりに、こうだと思うことにした。
 中井久夫は「エビデンスに基づく医学」よりもずっと前の時代に、ずっと進んだことを言っているように思えた。目的と手段が合意してはじめて、その手段=治療に効果はあるか、害はないかが問題になりえる。むしろ、その合意に至るまでの過程にこそ、治療を可能にする人間的な関わりが宿っている。
 そう考えると、コロナトークのすっきりしない感じも説明できる。ワクチンはコロナに効くのか。副作用はないのか。何のために? それはそもそも意志決定の問題、すなわち政治の問題であり、社会の問題であり、医学の問題ではなかったはずだ。
 なのに、ニュースはいつも「このデータは正確でない」「いやいやその説にこそバイアスがある」と細部に迷い込み、情報を増やす一方だ。細部をいくら正確にしても、そもそもその情報を意志決定の基準にするという合意ができていないなら、役に立つはずがない。情報が正しいの正しくないのという話の全体が、肝心なところを覆い隠している。ちょうど物があふれていた僕の部屋のように。
 何が正しいのか迷ったら、テレビを消して、お気楽なベストセラーでも読んでみてはどうだろう。
 

関連書籍

近藤麻理恵

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梅棹 忠夫

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