昨日、なに読んだ?

File74.自分の夢を、自然と思い出す時に読む本

さくらももこ『ひとりずもう』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』『アニエス・ヴァルダ 愛と記憶のシネアスト』(共著)、『偉人たちの辞世の句』ほか映画・歴史批評で活躍するライター・若林良さんです。

 大学を卒業して1年目の頃、社会人になった同級生に会うと「サザエさん症候群になっちゃったよ」と苦笑交じりに言われることがあった。つまり、日曜日の夜になると、翌日からの仕事のことを考えてユーウツモードに入るというアレである。

 いっぽう、当時の僕はと言えば、「サザエさん時空」にあこがれていた。つまり、『ドラえもん』しかり『クレヨンしんちゃん』しかり、登場人物が年を取らず、何気ない日常が無限ループで続くというアレである。就職もせずブー太郎、いやプータローであった僕は、しかしそうした現状に問題意識を覚えるよりは、むしろこの若いままで、いつまでも無為な日々のありがたさを享受したいなどと、情けない(とはいえニートあるあるな)ことを考えていた。

 幸か不幸か、そうした生活は長くは続かなかったが、いわゆる日常系の作品は今でも好きでよく読み返す。『ちびまる子ちゃん』もそのひとつだ。

「永遠の小学3年生」として、夏休みの最終日に宿題が終わらずひんひん泣いたり、年賀状に「年賀」のマークを付けるのを忘れ、年内にはがきが届いてしまうようなドジな、でもどこか笑える失敗を繰り返すまるちゃん。たまちゃんやはまじ、花輪くんなど個性あるさまざまな友だちに囲まれ、ふとしたきっかけで彼らとの友情を実感するまるちゃん。時には海外や未来を冒険し、未知のできごとに出会うたびに、目をきらきらさせて喜びを表現するまるちゃん。彼女の姿に触れ、当時の自分にもこんなことはあった、もしくは、こんなことを経験したかった、などと今でもさまざまに想像をふくらませる。いっぽう、そんなことばかりしているせいか、僕の財布の中身は不必要なスタンプカードやレシートをのぞき、さっぱりふくらんでいかないのだが。

 まあ、そんな話はさておき、まるちゃん自身は永遠の小学生であっても、実際の作者は年齢を重ねていく。さくらももこは自分が「まる子」になる前の赤ちゃんの頃から、「まる子」になった小学生の頃、さらには、「まる子」を卒業し、「ももこ」になったのちの自分の足取りを、『もものかんづめ』や『たいのおかしら』をはじめ、いくつものエッセイで発表している。

 いずれも粒ぞろいの名作だが、その中でも僕は『ひとりずもう』が好きだ。それは、小学5年生の頃から、漫画家になるという自分の夢を叶える、いや、正確には夢を叶えるスタートラインに立つ、高校3年生までの日々が繊細に書かれているからかもしれない。

 誤解のないように付言すれば、『ひとりずもう』は、ももちゃん(呼び方に迷うがひとまずこれで)が夢に向かってストイックに努力する熱い青春記ではない。むしろ「私は何もしない青春を送る者なのだ」とさくらももこ自身が語るように、ももちゃんは「一番何もしなくていいから」という理由で入った物理部の文化祭の発表はさぼり、合唱コンクールやリレー大会の練習はさぼり、夏休みに海にも山にも行かず家で昼寝をし、続けることといえば、通学路で偶然すれ違い、一目惚れした男の子のことをぼーっと考えることくらい。そんなももちゃんを見て、お母さんも「何にもしないでよくそうやって生きてられるねっ」と思わず声に出す。

 でも、ももちゃんの日常は、けっしてつまんないものには見えない。それはたぶん、さくらももこが自分の「子ども」の感覚を尊重し、大切にいつくしんでいることが、いろんなところから伝わってくるからだと思う。

「生理になりませんように」と祈り、そのためには胸が大きくなっちゃだめだとうつぶせで寝るようにしたり、長い髪にカチューシャをつけたきれいなモデルに魅了され、三つ編みにしていた髪をほどき、カチューシャの代わりにハチマキをつけておんぼろ鏡の前でうっとりしたり、実家の八百屋がカッコ悪いという理由で、喫茶店に変えて店名は「喫茶ヒロシ」にしようと親にもちかけたり。「子ども」ならではの笑えるエピソードだが、しかし、さくらももこは当時のそうした行動を、いたずらに戯画化したりはしない。

『ひとりずもう』には思春期ならではの、いわゆる「エモい」エピソードも多い。無神経なゴリラだと思っていた同級生の男子にも優しさや繊細さがあることを知ったり、はじめて見た流れ星に、圧倒的な宇宙の大きさを感じたり、あるきっかけでふとボブ・マーリーの良さを実感し、はじめてレゲエのレコードを買ったり。

 そして、そうしたエモさは、さっきの笑えるエピソードともどこかでつながる。思い返せば、子どもの頃は知らないことだらけで、だからこそバカみたいな失敗も、自分のこれまでの世界が揺るぐような、世紀の大発見も日常だった。そう考えると、本作にある笑いも、ひいては『ちびまる子ちゃん』にある笑いも、単なる失敗談なんかじゃなく、大人になるためには必要なプロセスだったんだ、と自然と納得させられてくる。

『ひとりずもう』において、ももちゃんが明確に漫画家になりたいんだと自覚し、漫画を描き始めるのは、本の4分の3が終わった後になる。それまでに描かれるのは、カテゴライズをするならば、ここまで述べたようななんてことのない日常だ。

 でも、それがさくらももこにとって、不必要なプロセスなんかじゃなかったことは、僕もあなたも、読者のみんなが知っている。

「夢を叶える」ということは、いわば、何気ない日常の先にあるのだと思う。それは日常の一瞬一瞬を大切に、みたいなこととはちょっと違う。第一、そんなに気を張っていたら体がもたない。さくらももこ自身も、あとがきにこのように書いてくれている。

「毎日、人の数だけ違う事が起こっている。同じ日なんてない。一瞬も無い。自分に起こる事をよく観察し、面白がったり考え込んだりする事こそ人生の醍醐味だと思う。
 青春の時期というのは、やみくもに夢だとかああなりたいとかこうなりたいとか思いがちだが、人生って夢やイメージではなく、毎日毎日が続いてゆくものであり、人間が一日にできる事といったらホントにちょっとだけだし、ちょっとだけしかできない事を、楽しんだり味わったりしてゆく気持ちを若いころから忘れないでいて欲しいと思う」

 そのあとには「もう若くないよという皆様も」と続けてくれていて、すでに三十路になってしまった僕も、なんとなく勇気づけられる。

 今年のお正月は久しぶりに寒かったけど、でも、それが嬉しかった。冬の空の下で、ふうっと、息をはく。そのはいた息の白さを、自分の目で確かめる。

 時間にすれば数秒ほどのこうした動作をするかしないかで、僕の未来の大勢が変わるということは恐らくはないだろう。でも、こうして息をはいたことは、ちょっと大げさに言えば、たしかに僕の道のりの中に刻みこまれた。

 僕にも、まだ夢はある。それが叶ったとき、あるいは、何らかの形で夢との折り合いをつけることを決めたとき、僕の目にうつったあの息の白さは、こんどはどのような色を見せるのだろうか。

 キラキラ青春とは無縁だった、いい歳した(あんまイケメンじゃない)男がきめえな……とも書きながら思ったけど、でも、「おっぱっぴー」みたいな感じで終わらせることは、自分自身にも、こうして夢について改めて考える機会を与えてくれた、さくらももこさんにも不誠実だと思った。

 だから、最後はストイックに。
 さくらももこさん、ありがとう。どこの馬の骨ともわからぬ軽輩者がいろいろと書きましたが、いずれ、ウン十年か経ったのち、そちらで、お酒をご一緒できれば幸いです。
 その時を楽しみに、適度ななまけと日常へのまなざしを忘れず、夢に向かってがんばって生きていきます。