昨日、なに読んだ?

File101. 異国の文化と自分との結びつきを見つめる時に読む本
ピエルドメニコ・バッカラリオ、フェデリーコ・タッディア『だれが歴史を書いてるの?』/イオアニス・ゼレポス『ギリシャの音楽、レベティコ』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは漫画『アンナ・コムネナ』を連載中の佐藤二葉さんです。

 

 5年前、ギリシャ旅の最中、アテネ近くの港町ピレウスのタヴェルナ(ギリシャの庶民的な飲食店)で、ギリシャの姉と慕っているアンナさんを前にして私は泣いていた。
 アンナさんは私のことを「魂が古代ギリシア人」だと言ってくれる。アンナさん以外のギリシャ人にも何度かそのようなことを言われていた(これは単純に、私が古代ギリシアの竪琴を演奏しているからだと思う)。そのことがきっかけだったか、私は、日本にいてもギリシャにいても、完全にそこに「属する」ことが出来ない孤独に気付いてしまい、体の中で爆発したこの孤独感に取り乱していた。あまりにもおいしいギリシャの港町の魚介料理、フライドポテトのように細長く切ったズッキーニのフリット、一日の疲れを洗い流すようなきらめく白ワイン、大好きなアンナさんを前にしているのに、そして何より大好きなギリシャにいるのに、悲しくて子供のように泣いていた。
 この時、アンナさんは私の魂にしみいるような素晴らしい言葉をいくつも投げかけてくれたのだが——誇張なしにこの言葉たちがその後5年間生きるのを支えてくれている——その中の一つに、うまく理解できないものがあった。

「二葉、あなたはいつかゼイベキコを踊る。踊り方を知らなくてもその時になったらわかる」

 ゼイベキコって、ギリシャの男の人がよく一人で踊ってるイメージの、9拍子のダンス? というのが当時の私のぼんやりとした理解だった。
 ゼイベキコはギリシャの「レベティコ」(単数形。複数形ではレベティカ)と呼ばれる音楽ジャンルでよく聞くリズムである。9拍子のリズムの歌ないしそれに合わせて踊るダンス。9拍子は大好きだ。でも、どうして私がゼイベキコを? だってあれって、男の人のダンスなんでしょう? それに私は、歌はうたうけど、踊りはどちらかというと不得意だし……。

 アンナさんのおだやかで知的な話し方、そしておいしいギリシャ料理に慰められて私はすっかり気を持ち直し、ニコニコ顔でタヴェルナを後にしたのだが、私とゼイベキコを結び付けたアンナさんの真意については量りかねていた。そして自分がゼイベキコを踊るとは思えないまま5年が経過し、特にそのことを意識するでもなく日々を過ごしていた。

 私は色々な活動をしているのだが、その一つに漫画を描く仕事がある。いま取り組んでいる作品『アンナ・コムネナ』は11~12世紀の東地中海を舞台とした歴史もので、主人公のビザンツ皇女アンナは最終的に歴史家になるひとである。そのため、題材の地域・時代・人物の歴史を学ぶのみならず、歴史を書くという行為や、「歴史学」についても考える必要がある。なんて恐ろしいことに手を出してしまったのか……と日々悩みながら制作しているが、最近、よいガイドになりそうな本と出会うことができた。

『だれが歴史を書いてるの?——歴史をめぐる15の疑問』(ピエルドメニコ・バッカラリオ、フェデリーコ・タッディア著、ブルーノ・マイダ監修、ミレッラ・マリアーニ絵、浅野典夫日本版監修、森敦子訳、太郎次郎社エディタス)は、イタリアで作られた、とても若い読者に向けた歴史学入門というべき本の翻訳である。「若い読者」と書いたが、これは、小学生にも届く言葉で書かれた「歴史学」の入門書なのだ。特定の分野の歴史について書かれた小学生向けの本は色々とあるが、歴史学について書かれた小学生向けの本はそうない。まず冒頭で、歴史というものが「物語」であること、そして歴史というのは必ず解釈が伴うことを、平易で、純化された言葉で紹介している。この時点で「いい本だなあ」と確信する。ほぼ全ページに添えられているイラストも魅力的だ。
「歴史的な考え方」はなかなか難しい。歴史を学ぼうという意欲に燃えている大学生にだって難しいだろう。その難しいものを、丁寧に、手渡そうとしている。

「物語の集まりである歴史は、いまを生きる人びとに、自分たちが過去の出来事とどう結びついているのかを教えてくれる」(p.8)

「過去の出来事のうち、どれを重視するかによって、いまを生きるぼくらと過去との関係は変化する。だからぼくらは、その過去がどうしていま大事なのかを考えながら、出来事の重要性を決めている」(p.20)

 読み口は優しいが大きなテーマを扱う本で、読み終えた時には圧倒されていた。同時に、良いツールを得たような心持ちで、このツールを携えて旅に行きたい気分になった。そこで、最近届いた別の本を開くことにした。少しばかり自分の作品のための資料読みから離れて、もっと個人的な、自分と「過去」とのつながりを探しに行ったのだ。

『ギリシャの音楽、レベティコ——ある下層文化の履歴』(イオアニス・ゼレポス著、黒田晴之訳、風響社)は、ドイツの歴史研究者(ギリシャからの移民二世)による「レベティコ」の歴史をたどる本である。レベティコは全盛期が半世紀以上前の音楽ジャンルながら、いまでも大変人気がある。と同時に、下層社会(アンダーワールド)のイメージ、東方に由来する要素などにより、ギリシャの民族主義的なアイデンティティや文化イデオロギーの中で「いかがわしいもの」と見なされてきた面もある。
 ならず者たちの音楽、小アジア起源……など、一般的によく言われている「神話」に対して、この書はあくまで慎重に、歴史学的に向き合い、複雑で多面的なこの音楽ジャンルの発展をたどりながらその輪郭を描こうとする。
 小アジアの大災厄——1919年からギリシャとトルコの間に生じた戦争の、1922年のギリシャ軍の敗北をギリシャではこう呼ぶ。トルコ軍によるスミルナ(エーゲ海に面した都市。現在のイズミル)の破壊とともに、2500年にわたる小アジアのギリシャ世界の歴史は終わりを告げた。1923年のローザンヌ条約により、ギリシャとトルコの間で住民交換協定が結ばれ、小アジアに住んでいたギリシャ語話者の正教徒たちはギリシャ王国への移住を余儀なくされた。この組織的で強制的な住民交換のほか、戦争が直接的な原因で逃げたり追放されたりした者たちも含めて、約150万人もの正教徒の難民がギリシャ国境内に流入したと言われている(副読本として村田奈々子著『物語 近現代ギリシャの歴史』(中公新書)をあげたい)。
 このギリシャ系難民の移住に伴い、さまざまな文化も流入した。ここにレベティコの起源がある……としばしば考えられているが、ことはそう簡単ではない。たしかに、小アジアの文化を背景として持つ難民の生活とレベティコのある要素は固く結びついている(私がいつか踊ると言われたゼイベキコもそう)。しかし、現在レベティコを特徴づけているリュート属の楽器「ブズーキ」は小アジアの難民からもたらされたものではなく、それ以前からギリシャで演奏されていた。様々な「神話」を丁寧に解きほぐしながら、著者はレベティコという音楽ジャンルの歴史的な背景を、楽曲と共にたどっていく。(ありがたいことに、それぞれの楽曲をYouTubeで視聴する際の楽曲へのリンクのリストを訳者が作って提供してくれている。本書カバー折り返しのQRコードからアクセスすることができ、本文に対応した作りで非常にわかりやすく、宝石箱のように貴重なリストとなっている。)

 さまざまな支流が合流し、うねり、絡み合っているレベティコの歴史をたどる読書の旅は、親切なツアーの旅ではあるが、らくちんな旅ではなかった。ときどき足を止め、耳を澄ませ、これってどういうこと? どういう意味? と質問をしないと先に進まない。あたらしい風景を見るためには自分で山登りをする必要のある読書だった。こういう読書ができると嬉しい。

 周縁の人びとの生活を歌い、東方の要素を排し「ギリシャ性」を確立しようとする体制に睨まれながらも人びとに愛され、録音技術とレコードによる商業文化の中で花開き、内戦で血を流し傷ついたギリシャ人たちの心に寄り添い、メディアの発展の中で変容し、変化しながら展開したレベティコ。その歴史を文字と共に耳でもたどりながら、ピレウスのタヴェルナで交わしたアンナさんとの会話が、私の中でさらに多くの意味を持つようになっていくのを感じていた。あの会話の記憶が、いま現在の私と、あたらしい結びつき方をし始めた。

 引き裂かれた私の内面、引き裂かれたギリシャ……地理的にも文化的にも、東方と西ヨーロッパが交差するなかで、アイデンティティを確立すべく血を流しながら苦しんできたギリシャの歴史が、渾然と自分の中でリズムを伴ったイメージとして立ち上がり、ふと、ゼイベキコのリズムが私の肌に沿うような感覚がした。
 歴史の本が、私と異国との間にあった「物語」に働きかけ、私と一つの音楽文化の「歴史」との間に変化をもたらした。この変化を見つめることも、ある種の歴史実践かもしれない。

 ゼイベキコは一人で踊るものである。9拍子の非対称なリズムで、決まったステップというものはないそうだ。即興と個人的な踊り方を最大限に可能にする形式で、踊り手の私的な、その人だけの財産とまでみなされると、本に書いてあった。まったくそうだと感じる。「そうだ」と感じられるほどには、いま、ゼイベキコと私の間には物語が——歴史がある。
 なんとなく、アンナさんが私とゼイベキコを結び付けた理由が見え始めたような気がしている。そして、いまなら、ゼイベキコを踊り始めることができるような気もしている。

 

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