今年の3月いっぱいで、新卒から働いていた仕事をやめた。学生なら学校、会社員なら会社。良くも悪くも、我々には日々行かなければいけない(とされている)ところがある。いささかモラトリアムに傾倒しすぎた大学生活を除けば、自分はこれまでその義務のようなものになんとか適応してきたわけである。しかしながら、あくまで自分の意志で選んだはずなのに、時折選択の余地なく与えられたハムスターの回し車をただ上手に回していただけのように感じることがあった。行動を起こすほどには至らない小さなやるせなさのようなものを月並みに抱いていた最中、ひょんなことから自分はそれを無邪気に降りることになったのである。
二十歳になる少し前に音楽を作り始めて、程なくしてそれは一番の趣味になった。「一番の趣味」という言い方は、それが真の意味では人生の中心ではないというニュアンスを往々にして含みがちである。にもかかわらず、あくまで彩を添えるための付け合わせであったはずの音楽は、いつの間にかスーパーサブとしてピッチを駆け巡り、遂には俺ハムスターを回し車から降ろしてしまった、といった認識でもある。
そんな中、自宅に放置されていた本たちは、回し車が強いるフルタイム週休2日の時間的拘束から解き放たれた自分にとって極めて魅力的に映った。退職を機に引越しをした。その際に、過去に読んで印象深かった何冊かをピックし、荷造り途中のぐちゃぐちゃな部屋で作業を放棄して読み耽ってしまった。中でもことさら大きな感動を今の自分にもたらしたのが金井美恵子の『岸辺のない海』であった。
世の中にありがちな問いとして「Xしたとてなんの意味がある?」というものがある。Xには、コロナ禍であれば「不要不急」の箱に入れられるような営みが代入される。例えば、自分にとっては、音楽や動画を通じた表現だったり、SNSに投稿される本当に取るに足らないようなくだらない投稿や、無意味な散歩だったりする。その手の問いに、美しい文章と共に、若き著者が真摯に挑んだものとして自分はこの作品を見ている。
エッセンシャルワークに近ければ近いほどそうであるが、会社員としてする仕事に対して、その手の意味をわざわざ問うのは基本的には野暮である。飯を食うためであり、社会運営のためであり、労働契約のためであり、国民の義務であり……。けれども回し車を降りた自分にとっては、これからなすことすべてがノン・エッセンシャルである(ように思えてしまう)わけである。タイトルの〈岸辺のない海〉とは、その意味でのノン・エッセンシャルな行為自体と、そうした行為を志向する人間のありかた両方の比喩として機能する。
具体的な像が描かれることのない作中の登場人物は、書くことに固執する。書いた文章を読み返し、書く理由を問う。そしてその理由を捉え損ね、また書くのである。連綿と繰り返されるその行為の果てに、到達すべき地点はどこなのだろうか?
我々は岸辺のない海にいる。近年は輪にかけて人々は岸辺のようなものにすがっているようにも思えるが、そんなものは実はないのかもしれない。明日も自分には課せられた義務や予定がない。確実ではないが、おそらく音楽を作るのであろう。