幼いころから、意味の分からないルールばかりの世界に生まれてしまったと思っていた。わたしの目に映る、ありとあらゆる世の中の秩序やルールが理解不能だった。
なぜ、みんなは人のものを盗まないのだろう。なぜ、お金には価値があるのだろう。どうして、「先生」は暴力を振るっていいのだろう。こうした問いは、わたしを捉えて離さなかった。そのせいでわたしは哲学者になった。
ただ、世の中についての知識が増えていくにつれて、これらの問いは少しずつ問いとしての切実さを失った。いい意味でもわるい意味でも、わたしは大人になっていった。
他方で、いくら知恵を増やしても解決できる気配のない問いがあった。
それは「性別」についての問いだった。どうして、いまの社会ではこれほどまでに性差が意味を持つのだろう。どうしてわたしは、「こっち」の性別をやらなければならないのだろう。
わたしは「あっち」の性別になりたかったわけではなかった。「あっち」の性別だという確信をもっていたわけでもなかった。でも、自分が「こっち」の性別をやらされていることは、ただただ鬱屈とさせられるものだった。あなたの性別は「そっち」だという、社会での約束事を突き付けられるたび、わたしは心に身代わりの人形を用意してそれに耐えた。
子どものころは、自分以外の人たちも「性別」が嫌なのだろうと信じていた。
考えないようにしよう、考えないようにしよう、と努力した。早く大人にならなければならない。でも、そうして努力すればするほど、わたしは性別について考えなければならなくなった。
わたしは疲れてしまった。性別について考えることに。そして、性別について考え続けてしまう自分の思考を制御することに。
そんなとき「ノンバイナリー」という言葉に出会った。女性でも、男性でもない性別を生きる人たちのための言葉。生まれたとき適当に割り当てられた性別を自分のものにできなかった人たちが、その言葉のもとに休息を得ていた。わたしは、このラベルの下で少し休むことにした。
この言葉と出会ったことで、わたしは自分について考え続けるのを少しだけやめられるようになった。その代わり、わたしがなぜこんなことで疲弊させられ続けてきたのか、問い返す余裕ができた。自分について問うのをやめ、世界について問う余裕ができた。
わたしのような人間は、おそらく無数にいる。自分の性別について考え続けることに疲れてしまった人たち。
そんな人たちを迎え入れてくれる日本語の書籍が、ここ数年で相次いで出版された。
1冊目はエリス・ヤング(上田勢子訳)『ノンバイナリーがわかる本――heでもsheでもない、theyたちのこと』(明石書店、2021年)。タイトル通り、ノンバイナリーについて書かれている。
著者は米国から英国へと移住した経歴を持ち、本書の内容はほぼ英語圏のノンバイナリーコミュニティに基礎を置く。しかし、このカテゴリーをアイデンティファイする人々が生きているジェンダーの様相や、抱えている困りごとなどは、日本に暮らすノンバイナリーとも無縁ではない。
ノンバイナリーたちはどんな服装で生きているのだろう。あるいは生きさせられているのだろう。ノンバイナリーたちはどんな恋愛や性愛を経験するのだろう。あるいは経験しないのだろう。あるいは経験することを妨げられているのだろう。ノンバイナリーたちはどのような「治療」を望むのだろう。あるいは望まないのだろう。こうした踏み込んだ問いにも、本書の中では答えが与えられる。
2冊目はジェマ・ヒッキー(上田勢子訳)『第三の性「X」への道――男でも女でもない、ノンバイナリーとして生きる』(明石書店、2020年)。先に紹介した『ノンバイナリーがわかる本』が、おおむね2010年代以降のオンライン上のノンバイナリーコミュニティの知恵を背景とするのに対し、本書の著者ジェマ・ヒッキーは、本書でも語られる通り2000年代にカナダで同性婚の法制化運動に従事した経歴を持つ。ジェマは、ゲイ(ここでは広く同性愛者の意味である)コミュニティの活動家であり、そしてカトリック教会の性暴力と闘うフェミニストである。
そんなジェマの人生の記録である本書からは、(ゲイ)レズビアンコミュニティが幅広いジェンダーの人々を包摂してきた歴史を感じ取らずにはいられない。性的指向(sexual orientation)と性同一性(gender identity)は確かに別のものだ。しかし、いまではLGBTという頭文字で理解されることもあるクィアコミュニティの歴史は、そんなに簡単ではない。LGBとTを切り離すという発想がどれほどナンセンスなものか、本書の読者たちは知ることになるだろう。
そして可能なら、パスポートの性別欄に「X」の記載を勝ち取ったジェマが力強いフェミニストであることの意味を、わたしは現代の日本のノンバイナリーたちとともに考えたい。
3冊目は周司あきら『トランス男性によるトランスジェンダー男性学』(大月書店、2021年)。タイトル通り、著者はトランス男性である。それゆえ、ここで本書を取り上げるのは不適切に思えるかもしれない。実際、かつて女性として生きた過去を持つ著者は、現在では完全に男性として生きている。
しかし、著者の「トランス男性」理解は少し変わっている。周司あきらは、トランス男性という存在を理解するにあたって「男性としての性同一性(性自認)」という概念を使わない。ただ、「男性として社会から扱われ、男性として生きている人」としてそれを整理するのである。そして、著者個人もおそらく「性同一性」の概念にリアリティを感じていない。
わたしたちは問いたくなるかもしれない。何をもって筆者は男性なのか。なぜ性別を移行したのか。性同一性がないなら、筆者はノンバイナリーではないのか。
しかし、それは問うべき問いを誤っている。問われるべきは、このような筆者が何食わぬ顔をして「男性」として生きることができている、現在の社会のジェンダーという制度である。それは必然的に、トランスジェンダーでもなんでもない(シスジェンダーと呼ばれる)男性たちが男性であるとはいったいどういうことか、という問いでもある。そうして「男性」という存在が問われてはじめて、周司あきらの孤独も癒されるだろう。
ノンバイナリーやトランスジェンダーは、つねに「問われるべきもの」として扱われ続ける。友人から、家族から、社会から、国家から、みずからの身体や精神を問いただされ、審査され続ける。そして、自分自身でも、自分を問い続けなければならない。それはとても疲れることだ。
そんな、自分の性別について考えることに疲れたすべての人たちに、この3冊をおすすめしたい。そしてどうか、休まる場所を見つけて欲しい。
問われるべきは、あなたではない。