昨日、なに読んだ?

File92.朝、小さなベランダでひとつずつ読む本
ヴァルター・ベンヤミン『一方通交路』(晶文社、幅健志、山本雅昭編)/J・P・へーベル『ドイツ暦物語』(鳥影社、有内嘉宏訳)

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは落語家の林家彦三さんです。

 私の小さなベランダは、私のものである。月々の店賃が遅れてしまうことがあるから幾分申し訳なさもあるが、それでも名義上、ある程度の権利はこの私にあるはずである。
 よって朝の数分くらい、私が私の小さなベランダで、その権利に守られながら贅沢な外気に触れることのできるこの場所で、あらゆる世界を自分のためだけに自由に打ち建ててみてもきっと良いわけである。あるいはその世界を、自由に打ち崩してみてもまた良いのである。それは私のためだけに私の中で施される工事だからそのようなことはないと思うが、その世界が崩れ落ちる騒音さえ近隣のご迷惑にならない限りは。
 私の小さなベランダには、一足の青いサンダルがある。安い白い椅子がある。煤けた室外機の上には色褪せた菓子の缶があり、中には五色の付箋とメモ帳とペンが入っている。鍋置きのような六角形の木片があり、それは本などを乗せるための板である。故郷から採取してきた幾つかの黒曜石も置いてある。これは土埃を拭うための手拭いの重しである。その注染の手拭いも、やはり色褪せている。これが私のベランダである。彼らは六月の夜には風雨に曝されながら、朝を待つ。彼女らは十二月の夜には凍てと降霜に耐えながら、朝を待つ。それらは私の小さなベランダの、それでも立派な舞台役者なのである。私が私の世界を守る以上、このような貧しく気障な演出もまた必要なわけである。
 私はこの小さなベランダで、毎朝、数分だけ本を読むということを日課としている。ごく自然な成り行きで、例えば煙草を吸う方が起きぬけに一本を燻らすような手筈で、ごく短い断章を一章ずつ、読むのである。その火種を大事に、ごくゆっくりと喫むように、というもう時代に合わないだろう比喩を用いるとすれば、それがまた合う。もちろんこの場合の空気は煙草のそれは違って、無色かつ無害の紫煙だけれども。
 このところ日課としていた本は、ヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』。標題付きの散文の小品集のようなもの。ひとつひとつも短い。いつかの朝の付箋を頼りに、まずはここに一文引いてみる。

 韻文として構想されながら、中途でたった一箇所、韻律を狂わされたところのある複合文こそ、あり得べき最高に美しい散文を生みだす。ちょうど、壁の小さな隙間から錬金術師の小部屋のなかに洩れこぼれた一条の光線が、水晶やトライアングルをキラリと輝かせるように。

 ベンヤミンは独文科生にとっては必読書ではあったが、それはまた難儀というところもあった。全体の印象として、相当の理解度と語学力が必須であって、不勉強の者は言及も許されないような空気感を無言ながらに常に放っていて、余程の研究者でなければその名を出したとたんにその場の人の閉口を被るというような印象が、少なからず私にはあったのである。(況や今や芸人の私がここでその名前を持ち出すのも、憚られる。もちろんそれは多分に私感もあるけれども。)
 それでも当時の私は、ベンヤミンの散文をまるで表現の宝箱を開けるようにして読んでいたのであった。日本語の文法のひび割れる瞬間と光とを感じながら。誰にも言わず、まるで屋根裏部屋の残光で活字を拾うような気分で。それは読解ではなかったが、しかしまた過たず読書であった。
〈わたしが好きなのは蔵書の荷解きをするあなた。子どもの絵本を読むあなた。何気ない町へ、そして何気ない思い出へ、言葉をつめこんで何気なく遊歩するあなたです。幼年時代と街とは道を隔てているだけで、向かいの郵便局から異国の書物が遠くこの島国のわたしの無知に流れ着く頃には哲学の鎧などぼろぼろになってまるで脱ぎ捨ててしまっていて、あらゆるカタカナの小包さえ柔らくなって保護すらされていないものになっているのですが、そのような受容であれまたわたしはそれを甘受と呼びたいのです。〉
 これは学生時代の私のメモ帳からこのたび見つかったベンヤミン雑感なるものを繋げた文章である。気後れもするが、所詮このメモ書きも噺家の屑籠にあってはこれから行く当てもないだろう身の上だろうと思うので、ここに恥ずかしげもなく引用しておく。加えて読書におけるごく忘れやすい心得を、ほんの少しは留めているような気もするので。
 あらゆる光を感じてもいいだろうと思う。書かれたものがあり、そこに書かれたものの広がりがあり、それが難解なものであれ、翻訳されたものであれ、それら誤読世界が何かの光を放つならば、その新しい光を自由に感じて良い権利はつねにあるはずである。――もちろん、それは私の小さなベランダにいるからこそ言える強がりなのであるが。
 私は私の身分を忘れて、文を読むひとになって、ゆっくりとひとつの断章を読む。そしてカレンダーの升目に罰点を付ける。それから、さて、顔を洗って、シャワーを浴びて、身支度を整えて、そうして自らの足で、〈どのみち芸人〉と言われる世界に繰り出すわけである。古い慣習の標識と新しい脇道に気を配りながら、誰の権利でもないこの曲がり切れない道を、そうしてまた歩いていく。
 それでも朝はまたすべてを拭い去ったような顔でやってきて、私にまた新しい散文を読ませる。採光のために開かれた本にじゅうぶんに光を浴びせてやることで、活字もどうやら自らの手で目をこすりながら目覚める。あるいは私にはそのように見えることがあるのである。覚束ない知性の中で。私の小さなベランダは、そういう種類の読み物の場合にこそ活躍する。それでも良いのだ。私の小さなベランダは、私のものなのだから。