「障害」に関心を持ち始めたのは小学5年生の頃で、その理由は「差別を許せないから」だった。ある日の帰り道、近くの作業所に通う障害のある方に挨拶をした私に向かって、「なんであんな人に挨拶をするのかわからないよね」と通りすがりの一つ年下の子が言った。私はその後に「障害のある人を差別のない国に連れていきたい」という詩を書いた。
それから20年以上が経つ。小学5年生の時の私は、差別がなぜ起こるのかわからなかったし、自分は差別をしていないと思っていた。自分は正義の味方であり、悪から困っている人を救うのだ、と思っていた。実は、つい最近までそう思っていた。が、そんなことはまったくなかった。
『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(荒井裕樹著、現代書館)はひりひりするほど、自分のこれまでの加害性を自覚させる。
「『車椅子のままバスに乗りたい!』というのが『障害者のワガママ』だというなら、『車椅子のままバスに乗るな!』というのは『健全者のワガママ』ではないのか?『障害があっても普通学級に行きたい!』というのが『障害者のワガママ』だというなら、『障害児は養護学校に行くべきだ!』というのも『健全者のワガママ』ではないのか?」*(p.130)
※健全者:「健常者」と同義。当時障害者運動にて使用されていたため本書では「健全者」という言葉が使用されている。
障害のない人仕様に作られた社会の中で、障害のない人として、気付かぬうちに私は恩恵をうけてきた。何も考えずに当たり前にバスを利用し、当たり前に地域の学校に通った。私にとっての当たり前の場所やものは、障害のある人を排除していた。
「社会には障害者に対する根深い差別構造があり、障害者も『健全者』も、それを無意識のうちに受け入れている。『健全者』は障害者を差別する〈健全者としての悲しみ〉を自覚し、闘う障害者と出会うことを通じて、自己変革していかなければならない。」(p.198)
私が育ってきた家庭、学校、目にしてきたメディア、使ってきた制度、全てに差別構造が潜んでおり、私が発する言葉や行動もそれに影響を受けている。障害のない人が障害のある人を差別しない、なんて絶対にあり得ない、と、この本は絶えず突きつけてくる。私はそこからスタートしなければならない。
自分の加害性への無自覚さに絶望的な気持ちにもなるが、そんな時は『真のダイバーシティをめざして 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』(ダイアン・J・グッドマン著、上智大学出版)を読む。特権者である自分の加害性との向き合い方、そしてその後のアクションへどうつなげるか?を具体的に教えてくれる。
そして、これらの書籍をよむうちに、実は私も、女性としてこれまで抑圧を受けていたのだと気付いてしまった。障害の観点からみると自分には特権があるが、ジェンダーの観点から見ると抑圧を受けている。これに気付いたときはへこんだ。しかも一度気付くと、見ること聴くこと、日常にあふれているマイクロアグレッションに耐えられなくなる。どうしたものか、と思ったが、『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』(イ・ミンギョン著、タバブックス)を読んで、それらに対してどう反応するかは私に決める権利がある、と学んだ。スルーするもしないも私が決めたら良い。
加害性と向き合うこと、そして自分が抑圧を受けていることをアクセプトすることはしんどい。それに気付きはじめた時はとくにそうだろう。しんどいけど、まずはそこからはじめるしかない。受け止めた上で、それを周りの人とシェアしていくと、実は周りの人も一緒だったりする。そして、なんだか自分が更新された感じがしてくる。新しい学びは常にjoyである。